」に傍線]・しく[#「しく」に傍線]の形に、終止形のし[#「し」に傍線]が発達して来るのだ。
「――く……あり」の形は、夙くから用意せられてゐて、其中間に、言葉を幾つも挿んでくるので、そのうちに「――く」の部分だけが独立して副詞となり、あり[#「あり」に傍線]を捨てゝ、中間に挿入する所に出来て来るのが、即ち形容詞である。だから、なり[#「なり」に傍線]・たり[#「たり」に傍線]・かり[#「かり」に傍線]を形容詞の中へ入れようと言ふのにも、根拠だけはある訣だ。
譬へば、万葉集に用語例の多いなくに[#「なくに」に傍線]である。万葉集ではかなり人気のある語で、万葉集以前には、そんなに流行したとも思はれず、又其以後も、段々すたれて行つて了ふが、平安朝ではまだ少し残つて居る。之は否定の助動詞ぬ[#「ぬ」に傍線]にく[#「く」に傍線]をつけてなく[#「なく」に傍線]と体言化させ、其に副詞語尾のに[#「に」に傍線]をつけたもので(譬へば、思はぬ→思はなく→思はなくに)、正確な使ひ方は、之も其形は残つてゐないが「思はなくにあり」であつたらう。其あり[#「あり」に傍線]を省いて、皆なくに[#「なくに」に傍線]で済まして居る。切つて了ふと言ひ残しがある訣だから、反動的な詠歎的な気持が出て来る。だから、之をないのに[#「ないのに」に傍線]と訳すのは邪道ではなくとも、まづい解釈で、ないことよ[#「ないことよ」に傍線]と言ふのが本道である。既に万葉集でも、それがあつて、「おのがゆく道は行かずて、呼ばなくに、門に到りぬ……」(巻九)などは、「呼ばないのに」と訳すより仕方のない使ひ方だ。門に到りぬに続いてゐるのだから、「呼ばないことよ」と切れる筈のところではない。他にも同じやうな例があつて、とにかく、集中でもう変化を見せて居る。
かういふ変化は、を[#「を」に傍線]にも見られる。本来感動の助詞であるが、逆の場合の感動、即ち、のに[#「のに」に傍線]といふべき所へ、を[#「を」に傍線]をつけて「……であるにも拘らず……」とはね返る様な意味の使ひ方をして居り、場合によると「ゆく人をば[#「をば」に傍線]恋しく思ふ」といふ風な、客語の語尾にも使つて来て居るのがある。とにかく、言葉といふものは、切れてゐると思ふと、次の語に続いてゐて、感じでゆく、といふ習慣のあるものだ。なくに[#「なくに」に傍線]もあり[#「あり」に傍線]を省いてゐる言葉と訣つてゐるのに、「……であるのに、それにも拘らず」といふ意味に用ゐて来る。
ね[#「ね」に傍線]といふ語も之と同じで、「人こそ知らね[#「知らね」に傍線]かわく間もなし」などは、この法としては、知らね[#「知らね」に傍線]で切れる筈であるのに、下の語に続いて居る。
かういふ現象は、長い間の習慣の結果である。万葉集のなくに[#「なくに」に傍線]の中に、「……なのに」などと訳さねばならない用法があるのは、意義の変化、聯想の変化であつて、少くとも此変化だけは知つておかねばならぬ。平安朝に入つては、もうあり[#「あり」に傍線]の下についてゐた事を忘れて了つて、悉くが、「……なのに」の使ひ方になつて了ふ。
かうした例は、まだ多くあるが、もう一つあげてみると、例へば我々が、ゆゝし[#「ゆゝし」に傍線]などと言つてゐる言葉は、本道はゆゝし[#「ゆゝし」に傍線]だけで完全な意味があるのではない。少くとも奈良朝からあるが、これは宗教的な言葉で、言ふことも慎しまれるといふ気持である。全体に、副詞は抽象的で概念的なものが多いが、此言葉も非常に抽象的な言葉だから、具体的な意味を持つた語を中に入れなければ完全にはならないのだ。一旦入れたものを、使ひ慣れて来るうちには又、省いて、其語だけで、代表させるやうになるから、自然に独立して来る。「ぞつとする程……である」と言ふ意味の言葉が変化して、ゆゝし[#「ゆゝし」に傍線]とだけ言へば「ぞつとする程に……」といふ意味になつてくる。其が更に、「ぞつとする程にいけない[#「いけない」に傍点]」意味をも分派してゆくのである。
この経路と事情とは、あはれ[#「あはれ」に傍線]の語に就いても言へると思ふ。あはれ[#「あはれ」に傍線]などは、伝説の上では高天原以来の語であると信じて居るが、恐らくさうでもあるまい。一体、日本の言語だけから考へても、日本の民族の歴史は、短くはないと思はれる。この言語の長さが、果してこの国土に移り住んでからのものであるか、或はその以前の国土に居つた時からの続きであるかは訣らぬが、ともかくも、言語だけを見ても、紀元年数などよりは遥に古いといふ感じがする。其はともかくとして、あはれ[#「あはれ」に傍線]は果して始めから色々な内容を持つてゐたかどうか。恐らく当初は、感動の語として単純なものであつたのを、
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