言葉に感じてゐる。それでも、物語日記類をよく読む人は、それでは飽き足りぬので、私どもも之を、たまげる[#「たまげる」に傍線]などと訳して居る。宣長もさう言つてゐる様だ。つまり、あさまし[#「あさまし」に傍線]は自分の方でも浅いことを自覚する意味である。あさむ[#「あさむ」に傍線]の形容詞化したものだ。副詞にもあさはか[#「あさはか」に傍線](→あさむ)などがあるが、自分ながら自分の心の狭いのに驚くといふ言葉である。だからたまげる[#「たまげる」に傍線]と訳さなければ、気持が出ない。
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「かゝる人も世に出でおはするものなりけりと、あさましきまで目をおどろかし給ふ」
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[#地から1字上げ](源氏、桐壺)
之を近代的に解釈すれば、「情けないと思ふ程、慎しみもなく愕いた」と、なるが、そんな解釈が誤つて居ることは言ふまでもない。たまげる程に目を見開いた、といふことでなければならぬ。又、夕顔の段にも、
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「人の気配いとあさましくやはらかにおほどきて」
[#ここで字下げ終わり]
之も亦、情けない程に、ぐにや/\してゐて、といふことではない。その容子がたまげる[#「たまげる」に傍線]程に、やは/\として鷹揚であるといふのである。更に、もつといゝ意味にあさまし[#「あさまし」に傍線]のついてゐる例もある。ともかく、「あさましく……なり」といふ形であつたものが簡略化されて来る訣だから、結局、言葉を省く窮極には、「あさましく美しく」、「あさましく清らに」といふ様な文句でも、皆、あさまし[#「あさまし」に傍線]で代表して表現して了ふことになる。さうして、どんな内容でも、皆たまげる[#「たまげる」に傍線]と訳して了つてゐる。あさまし[#「あさまし」に傍線]に続く動詞・形容詞を省いて了ふので、表面上の形としても、あさまし[#「あさまし」に傍線]といふ終止形で、どんな意味をも表し、その中で、あゝ嫌だといふ気持を持つた意味の方が勝を占めてくると、後世の様になつて了ふ訣である。源氏でも、その意味の場合もないことはないが、その時分のあさまし[#「あさまし」に傍線]は今のあさまし[#「あさまし」に傍線]そのまゝではない。「あさましく……なり」の形で、中間を省き、あさまし[#「あさまし」に傍線]で、その省いたものを表はして居る点は、先のう
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