つたら、何時まで経つても、今の意味の解釈ばかりで、昔の人の気持は、少しも訣らぬといふことになつて了ふ。民族精神などといふ問題も、実は、この言語の理会を外してゐては考へられぬ。昔使つてゐた意味が適確に訣らずに、昔の人の気持が理会出来る筈はない。近代の論理で昔の人の気持を忖度してゐる、といつた誤解はかなり多くして居ると思ふ。今は、文法的に何と解してゐようと、昔は、其通りに解してゐたのではなかつたかも知れぬのである。
六
時代を少し下げて、平安朝の例を採つてみよう。言語といふものは、永い間に亘つて生きてゐる事もあり、生れて、直ぐ死んで了ふのもあるし、又、一方では死んでゐながら、他方では生きてゐるといふものもある。方言などをみると、その生滅の端倪すべからざるものを残してゐることが訣る。だから、言語の生命は簡単には論ぜられない。平安朝の言語とは言つても、平安朝の文献に出てゐるといふ消極的な事実だけで、其が奈良朝にはなかつたとまで言ひ得ない。寧、あつたと言つた方がよい、といふものが多いかも知れぬ。併し又、形は古くとも、後世からあてはめて使つた、といふものがあることも注意せねばならぬ。「けなばけぬかに」といふ語の、形そのものは古いとしても、その人気によつて、新語をも、その形にあて嵌めて了ふ、といふ類だ。此いゝ例は狂言記の言葉で、室町時代の語法だと言はれるが、決してさうばかりではない。その中の言葉は、近代まで改作が行はれてゐる事実があるのだから、之を早急に室町時代の言語として見ようといふのは間違ひである。実際には、室町の狂言の型だけが残つてゐて、其型に嵌めて語を作つて行つて居るのだから、つまり室町の擬古文なのだ。だから、狂言記を基として室町の語法を研究するといふこと程、無謀なる危険はない。其と同じく古代の歌や文章は、殆ど擬古と類型であると言つていゝ。譬へば人麻呂でも新語などいふものは、実は、無いのだと言つた方が本道だらうと思ふ。古い語に似せてゐるのにすぎないが、たゞ其中には、何か新しさを感じさせる彼の性格といふものが漲つて居る、といふことは、確かに言はれよう。だから、平安朝でも、其例には洩れず、古い型か、それとも古い型に嵌めたのかは、容易に断言出来ない。
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言へばえに 言はねば胸にさわがれて、心ひとつになげくころかな(伊勢物語)
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