するのに之を使ひさへしなければ、済むけれども、それでは此一語の説明が何時まで経つてもつかないのである。

       五

概して言語には、何より先づ語原研究が盛に行はれるが、中には、見るからに愚かしい説も少くはない。語原説では、どうしてもその態度が一番問題になる。言語は偶然に出来たものが多いから、似た様なものを集めて来て、それらの成立から類推して説明しようとしても、凡そ、これ位、はかないものは無い。結局は、学者その人の人柄・教養・科学性を信頼するより仕方がない。語原だけは、幾ら文献式に、科学式に緻密にやつても出来ぬことが多いのである。
「消なば消ぬかに」の様に、たつた一つだけ、こんな形が残つて居る。之から考へられることは、「消えさうな」といふことをけぬかに[#「けぬかに」に傍線]と言ふのは、もとは消なば[#「消なば」に傍線]といふ条件の句がついてゐなければ訣らなかつた、其が永年の間に慣れて、条件を省いても訣る様になつたものだ、といふことである。かに[#「かに」に傍線]は又かね[#「かね」に傍線]とも言つて平安朝まで残つてゐるが、其にも拘はらず、世間の生きた言葉としては薄れて来て、べく[#「べく」に傍線]といふ語に代つて来た。もうけなば[#「けなば」に傍線]などはつけなくてもよい様なものだけれども、昔からつけてゐるからといふので、之をつけて、表面だけのくらしっく[#「くらしっく」に傍点]を保つてゆかうとしたのだ。之に似た形は東歌に、一つある。
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おもしろき野をば な焼きそ。古草に新草まじり、生ひば生ふるかに[#「生ひば生ふるかに」に傍線](万葉巻十四、三四五二)
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が其である。生ふ[#「生ふ」に傍線]といふ動詞は普通、四段だが、上二段に使ふことも出来た。初めから四段に決つてゐたか否かは何とも言へぬが、恐らくは、活用の固定するまでの間には、動いたものであらう。だから、四段に決つて了つてからも、場合によると、昔使つた上二段が出て来るのである。此歌、通例は、結句を「生《ハ》えれば生える様に、まかせて置けばよい」と取つて、老人述懐の比喩歌としてゐる。かう解いて無理のないことは、後になると、
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焼かずとも草は萌えなむ。春日野は、たゞ春の日にまかせたらなむ(新古今 壬生忠見)
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などの
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