。其原理を導き出すのには、今の方法では駄目で、今一度、昔に還つて、省みなければならない。
日本の神典を見て、一番困ることは、神と神でないものとの区別が、明瞭でない事である。古事記その他の書物に現れた、霊的な人々の記録は、同じ時代の事であると考へては、何時まで経つても、ほんとうの事は訣らない。古事記にしても書きとめられた時より、五百年以上も前の事があると見て、はじめて訣つて来る。古事記の中には、神になり切らない、霊的なものと、神になつたものとがある。
日本の信仰には、どうしても、一種不思議な霊的な作用を具へた、魂の信仰があつた。其が最初の信仰であつて、其魂が、人間の身に著くと、物を発生・生産する力をもつと考へた。其魂を産霊《ムスビ》と言ふ(記・紀)。産霊は、神ではない。神道学者に尋ねても、産霊神と、神とを一処にする人は、まづあるまい。此神は無形で、霊魂よりは一歩進んだもので、次第に、ほんとうの神となつて来るものである。
日本の神典を見ると、神とたま[#「たま」に傍線]とを書き分けてゐるが、此には理由がある。不思議な霊的な魂の外に、人間に力を与へてゐた魂で、其人の死後も、個人のもつてゐた魂だ、と考へられるものがある。此魂の一部分は、聖なる資格ある人に著くものである。其の他の部分は、其人だけのものである。国・邑の魂の数は、定つてゐる。此には、証拠がある。其魂が、出たり這入つたりしてゐる。一人の人が死ぬと、其魂は、外のむくろ[#「むくろ」に傍線]に著いて、生きて来る、と考へた。其処から魂が個人持ちのものだ、と言ふ考へが、導き出されて来た。其で考へて来たのが、魂の集る処といふことである。此が、神典で一番大切な、神《カム》づまる[#「づまる」に傍線]である。
結局、玉留産霊《タマツメムスビ》[#(ノ)]神《カミ》の語原は、神づまる[#「づまる」に傍線]とおなじであると思ふ。つまる[#「つまる」に傍線]は、集中する意味だとおもふ。日本神道の純化して来た時代には、高天原が神づまる[#「づまる」に傍線]場所として、斥されてゐるが、もとは、日本の国土の外、遠く海の彼方の国が考へられてゐた。其処に集つた魂が、時を定めてやつて来て、人に著くと、人が一人殖えると考へた。
此海の彼方の国が常世国《トコヨノクニ》で、浄土・ぱらだいす[#「ぱらだいす」に傍線]或は、神の国と考へられてゐる。次第に純
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