古代生活の研究
常世の国
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)為来《シキタ》り

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)東京|様《ヤウ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)謂はゞむだ[#「むだ」に傍点]とも思はれる

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)藤原[#(ノ)]宮の

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
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     一 生活の古典

明治中葉の「開化」の生活が後ずさりをして、今のあり様に落ちついたのには、訣がある。古典の魅力が、私どもの思想を単純化し、よなげて清新にすると同様、私どもの生活は、功利の目的のついて廻らぬ、謂はゞむだ[#「むだ」に傍点]とも思はれる様式の、由来不明なる「為来《シキタ》り」によつて、純粋にせられる事が多い。其多くは、家庭生活を優雅にし、しなやかな力を与へる。門松を樹《タ》てた後の心持ちのやすらひ[#「やすらひ」に傍線]を考へて見ればよい。日の丸の国旗を軒に出した時とは、心の底の歓び――下笑《シタヱ》ましさとでも言ふか――の度が違ふ。所謂「異教」の国人の私どもには、何の掛り合ひもないくりすます[#「くりすます」に傍線]の宵の燈に、胸の躍るを感じるのは、古風な生活の誘惑に過ぎまい。
くりすます[#「くりすます」に傍線]の木も、さんた・くろうす[#「さんた・くろうす」に傍線]も、実はやはり、昔の耶蘇教徒が異教の人々の「生活の古典」のみやびやかさ[#「みやびやかさ」に傍線]を見棄てる気になれないで、とり込んだものであつたのである。家庭生活・郷党生活に「しきたり」を重んずる心は、近代では著しく美的に傾いてゐる。大隅の海村から出た会社員の亭主と、磐城の山奥から来た女学生あがりの女房との新家庭には、どんな春が迎へられてゐるだらう。東京|様《ヤウ》を土台にして、女夫《メヲト》双方のほのかな記憶を入りまじへた正月の祝儀が行はれてゐるに違ひない。さうした寂しい初春にも、やすらひ[#「やすらひ」に傍線]と下ゑましさ[#「下ゑましさ」に傍線]とが、家の気分をずつと古風にしてゐることゝ思ふ。
生活の古典なるしきたり[#「しきたり」に傍線]が、新しい郷党生活にそぐはない場合が多い。度々の申し合せで、其改良を企てゝも、やはり不便な旧様式の方に綟《ヨ》りを戻しがちなのは、其中から「美」を感じようとする近世風よりは、更に古く、ある「善」――尠くとも旧文化の勢力の残つた郷党生活では――を認めてゐるからである。此「善」の自信が出て来たのは、辿れば辿る程、神の信仰に根ざしのある事が顕れて来る。
数年前「東《ヒガシ》」の門徒が、此までかた[#「かた」に傍点]門徒連のやつた宗風のすたれるのを歎いて「雑行雑修《ザフギヤウザフシユ》をふりすてゝ」と言ふ遺誡をふりかざして、門松|標《シ》め縄を廃止にしようとした時は、一騒動があつた。攻撃した人達も「年飾《トシカザ》り」をやめる事が、国人としての気分の稀薄になつた証拠だといふ論拠を深く示さうとしなかつた。唯漠然と道徳的でない感じがしたと言ふ程の処にあつた様である。処があれなどは、神道家がもつと考へて見なければならない古義神道、或は「神道以前」の考察を疎かにしてゐた証拠になるのである。陰陽神道・両部神道・儒教的神道・衛生神道・常識神道などに安住して、自由に古代研究をせなかつた為である。
古代研究家の思ひを凝さねばならぬのは、私どもの祖先からくり返して来た由来不明のしきたり[#「しきたり」に傍線]が、時にはさうした倫理内容まで持つて来た訣についてゞある。言ふまでもない。神に奉仕するものゝ頼りと、あやまち[#「あやまち」に傍点]を罪と観ずる心持ちである。此が信仰から出てゐるものと見ないで、何と言はう。
神道家の神道論にもいろ/\ある。私の思ふ所をぶつきらぼう[#「ぶつきらぼう」に傍点]に申せば、文献の上に神道と称せられてゐる用語例は、大体二つにはひつて来る。
素朴な意義は、神の意思の存在を古代生活の個々の様式に認めて言ふのであつた。併し、畢竟は、其等古代生活を規定する統一原理と言ふ事に落ちつく様である。其を対象とする学問が、私どもの伝統を襲いで来てゐる「国学」である。だから、神道の帰する所は、日本本来の宗教及び古代生活の軌範であり、国学は神道の為の神学、言ひ換へれば、古代生活研究の一分科を受け持つものなのである。
神道の意義は、明治に入つて大に変化してゐる。憲法に拠る自由信教を超越する為に、倫理内容を故意に増して来た傾きがある。出発点が宗教であり、過程が宗教であり、現にも宗教的色彩の失はれきつて居ぬ所を見れば、神道を宗教の基礎に立つ古代生活の統一原理と見、其信仰様式がしきたり[#「しきたり」に傍線]として、後代に、道徳・芸術、或は広意義の生活を規定したと見て、よいと思ふ。
日本の古代生活は、此まであまりに放漫な研究態度でとり扱はれて来た。江戸時代に、あれまで力強く働いた国学の伝統は、明治に入つて飛躍力を失うた。為に、外側からの研究のみ盛んに行はれた。古代人の内部の生活力を身に動悸うたせて、再現に努めようとする人はなくなつた。数種の文献に遺つた単語は、世界の古国や、辺陬の民族の語彙と、無機的に比較研究せられた。此は伝統的事業を固定させてゐた私どものしくじりであつた。
私どもはまづ、古代文献から出発するであらう。さうして其註釈としては、なるべく後代までながらへてゐた、或は今も纔かに遺つてゐる「生活の古典」を利用してゆきたい。時としては、私どもと血族関係があり、或は長い隣人生活を続けて来たと見える民族のしきたり[#「しきたり」に傍線]、又は現実生活と比べて、意義を知らうと思ふ。稀には「等しい境遇が、等しい生活及び伝承を生む」と言ふ信ずべき仮説の下《モト》に、かけ離れた国々の人の生活・しきたり[#「しきたり」に傍線]を孕んだ心持ちから、暗示を受けようと考へてゐる。
三月の雛祭り・端午の節供・七夕・盂蘭盆・八朔……などを中心に、私どものやすらひ[#「やすらひ」に傍線]を感じるしきたり[#「しきたり」に傍線]が毎年くり返へされる。江戸の学者が、一も二もなく外来風習ときめたものゝ中にも、多くは、固有の種がまじつてゐる。私は、今門松の事を多く言うた縁から、元旦大晦日に亘るしきたり[#「しきたり」に傍線]の最初の俤を考へて、古代研究の発足地をつくる。

     二 ふる年の夢・新年の夢

海のあなたの寂《シヅ》かな国の消息を常に聞き得た祖先の生活から、私の古代研究の話は、語りはじめるであらう。
其は、暦の語原たる「日|数《ヨ》み」の術を弁へた人によつて、月日の運り・気節の替り目が考へられ、生産のすべての方針が立てられた昔から説き起す。暦法が行はれても、やはり前々の印象から、新暦に対立して、日よみ[#「日よみ」に傍線]の術が行はれて居り、昔、日よみ[#「日よみ」に傍線]を以て民に臨んだ人の末が、国々に君となり、旧来の伝承は、其部下の一つの職業団体の為事として、受け継がれてゐるやうになつてゐた。
大倭の国家が意識せられた頃には、もう此状態に進んでゐた。暦法は、最遅く移動して来たと思はれる出石人《イヅシビト》(南方漢人)などの用ゐたものが、一等進んでゐたであらう。道・釈の教が、記録の指定する年代よりも遥か以前に、非公式に将来せられてゐたのと同様、暦法も亦、史の書き留めを超越してゐるものと見てよい。天日矛《アメノヒボコ》や、つぬがのあらしと[#「つぬがのあらしと」に傍線]などを帰化民団と見ずに、侵入者と認めた時代の、古渡《コワタ》りの流寓民の村々にくつゝいて渡つて来たものと思はれる。だから、表向き新暦法の将来せられた時は、ずつと遅れる訣である。唯一般になつたと言ふまでゞあらう。かうした村々で、色々な暦法を用ゐ、又次第に相融通するやうになりかけた時代に跨つて話を進める。従つて記録の上では、新暦の時代に入つてゐても、古代研究の立場からは逆にまた、新旧暦雑多の時代と見ねばならぬことも多い。
概算する事も出来ないが、祖先が、日本人としての文明を持ち出した事は、今の懐疑式の高等批評家の空想してゐる所よりも、ずつと古代にあると考へねばならない多くの事実を見てゐる。此古代研究の話も、落ちつく所は、その荒見当を立てる位の事になるであらう。考証と推理とに、即かず離れないで、歩み続けなければならないのは、記録の信じられない時代を対象とする学問の採るべきほんとうの道である。
暦の話ばかりでなく、古代を考へるものが、ある年数を経た後世の合理観を多量に交へた記録にたよる程、却つてあぶないものはない。私は大体見当を、大昔と言ふ処に据ゑて話してゆきたい。そこには既に、明らかに国家意識を持つた民もあれば、まだ村々の生活にさへ落ちつかなかつた人々もあつたものと、見て置いて頂きたい。強ひて問はれゝば、飛鳥の都以前を中心にしてゐるのだが、時としては飛鳥は勿論、藤原の都の世にも、同様の生活様式を見出す事もあり、更にさがつて奈良の時代にも、古代生活の俤を見る事があらう。私の言ひ慣れた言ひ方からすれば、即、万葉びと以前及び万葉人の生活に通じて、古い種を択り分けながらお話する次第である。
陰暦・陽暦・一と月遅らし[#「一と月遅らし」に傍点]と、略《ほぼ》三通りの暦法をまち/\に用ゐてゐる町々村々が、境を接して居ると言ふ現状も、実は由来久しい事なのである。暦法を異にした古代の村々が、段々帰一して来る間に、其々の暦に絡んだ風習が、互にこんがらかつて来て、極めて複雑な民間年中行事をつくる様になつた。
譬へば、大晦日と元日、十四日年越しと小正月(上元)、節分と立春との関係を見ると、元々違つた其々の日の意味が、互に接近して考へられて来たのは事実である。
私は暦の上に、元日と立春との区別の茫漠としてゐた昔語りを試みる。

     三 夜牀の穢れ

地震以後「お宝々々」「厄払ひませう」も聞く事稀に、春も節分も寂しくばかりなつて行く。「生活の古典」が重んぜられてゐた東京の町がかうでは、今の中に意義を話して、偲びぐさとしたくなる。
宝船は、初夢と関聯してゐる為に、聡明な嬉遊笑覧の著者さへも、とんだ間違ひをして、初夢を節分の夜に見るものを言ふとしてゐる。元は、宝船が役をすました後に現れる夢を、初夢と言うたらしいのである。だが、暦法のこぐらがり[#「こぐらがり」に傍点]から、初夢と宝船とが全然離れ/\になつたり、宝船その物が、好ましい初夢を載せて来るものゝ様に考へ縺らかしたりして了うたのであつた。
初夢と宝船とに少しの距離を措く必要があつたからこそ、江戸の二日初夢などの風が出来た。除夜の夢と新年の夢とには、区別を立てねばならなかつた。除夜の夢の為の宝船が、初夢と因縁深くなつてからは、さうした隠約の間の記憶は二つの間に区劃をつけて居るに拘らず、初夢のつき物として、宝船まで二日の夜に用ゐられるのであつた。ともかくも初夢が、元朝目の覚めるに先《さきだ》つて、見られたものを斥《サ》した事は疑ひがない。
処で、宝船の方は、節分の夜か除夜かに使ふのが原則であつた。宮廷や貴族の家々で、其家内に起居する者は勿論、出入りの臣下に船の画を刷つた紙を分け与へることは、早く室町時代からあつた。牀の下に敷いて寝た其紙は、翌朝集めて流すか、埋めるかして居る。だから、此船は悪夢を積んで去るものと考へたところから出た事が解る。今見る事の出来る限りの宝船の古図は、其が昔物ほど簡単で、七福神などは載せては居ない。併しあまり形の素朴なものも却て、擬古のまやかし物と言ふ疑ひがあるから信じられないが、石橋臥波氏の研究によると、荒つぽい船の中に稲を数本書き添へたものが、一等古いものと考へられて居る。画の脇に「かゞみのふね」と万葉書きがしてある。
次は米俵ばかりを積んだ小舟の画と言ふ順序である。こゝまでは疑はしい。が、其後の物になると帆じるしに「獏」の字があり、船の外に[#「又」に似た記
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