号の図(fig18413_01.png)入る]のしるしが書いてある。更に此が意匠化して、向ひ鍵の紋になり、獏の字も縁起のよい字か、紋所と変つて居る。其からは段々七宝の類を積み込み、新しいところで、七福神を書きこんでゐる。[#「又」に似た記号の図(fig18413_01.png)入る]のしるしは、疑ひもなく呪符[#「X」に似た記号の図(fig18413_02.png)入る]の転化したものであり、此画まで来る間に年月のたつて居る事を見せて居る。獏は、凶夢を喰はせる為であるから、「夢|違《チガ》へ」又は「夢|払《ハラ》へ」の符と考へられて居たに違ひない。一代男を見ても、「夢違ひ獏の符《フダ》」と宝船とが別物として書かれて居る。畢竟除夜又は節分の夜、去年中の悪夢の大掃除をして流す船で、室町の頃には、節分御船など言はれたものが、いつか宝船に変つたのであつた。船にすつかり乗せて了うた後、心安らかに元旦又は立春の朝の夢を見たものであつた。
かう言ふ風に、殆ど一紙の隔てもない処から、初夢を守る為の物と言ふ考へも出て来た。逐ひやらふべき船が、かうして宝の入り舟として迎へられる事になつた訣だ。が、宝船元を洗へば獏の符なのであつた。更に原形に溯つて見ると、単に夢を祓ふ為ではなかつたらう。神聖なる霊の居処と見られた臥し処に堆積した有形無形数々の畏るべき物・忌むべき物・穢はしい物を、物に托して捐《す》てゝ、心すがしい霊のおちつき場所をつくる為である。(臥し処・居処を其人の人格の一部と見たり、其を神聖視する信仰は、古代は勿論近世までもあつた。)
此風習の起りの一部分は、確かに上流にある。上から下に船の画を与へる様子は、大祓その儘である。穢れた部分全体を托するものとして「形代」と言ふ物が用ゐられた。此で群臣の身を撫でさせたのを、とり集めて水に流したのが、大祓の式の一等衰へた時代の姿であつた。此船の画は、とりも直さず大祓式の分岐したものなる事は、其行ふ日からしても知れる。其上、尚、大殿祭《オホトノホカヒ》に似た意味も含まれてゐる。其家屋に住み、出入りする者に負せた一種の課役のやうなものである。其等の無事息災よりも、まづ其人々の宗教的罪悪(主として触穢《ソクヱ》)の為に、主人の身上家屋に禍ひの及ばない様にするのであつた。此風が陰陽師《オンミヤウジ》等の手にも移つたものと見えて、形代に種類が出来て、禊《ミソギ》の為の物の外、かうした意味の物が庶民にも頒たれる様になり、遂には呪符の様な観念が結ばれて来たらしい。神社などの中にも「夢違ひ」の呪符の意味で、除夜・節分の参詣者に与へる向きが出来たのである。併しかうした風習の民間に流布したのは、陰陽師の配下の唱門師等の口過ぎに利用した結果が多いのである。
けれども、此が庶民の間にとり容れられたには訣がある。前々からあつた似た種に、新来の様式がすつぽり[#「すつぽり」に傍点]とあてはまつたからなのだ。宝船に書き添へた意味不明の廻文歌「ながき夜のとおの眠《ネブ》りの皆目覚め……」は一種の呪文である。不徹底な処に象徴的な効果があるのだが、釈《とけ》る部分の上の句は、人間妄執の長夜の眠りを言ふ様ではあるが、実は熟睡を戒しめた歌らしい。海岸・野山の散居に、深寝入りを忌んだ昔の生活が、今も島人・山民などの間に残つて居る。夜の挨拶には「お安み」の代りに「お寝敏《イザト》く」の類の語《ことば》を言ひ交す地方が、可なりある。此考へが合理的になると、百姓の夜なべ為事に居眠りを戒しめるものとして「ねむりを流す」風習が、随分行はれて居る。柳田国男先生の考へでは、奥州の佞武多《ネブタ》祭りも、夜業の敵なる睡魔を祓へる式だとせられて居る。熟睡を戒しめる必要のなくなつた為に、さうした解釈をして、大昔の祖先からの戒しめを、無意味に守つて居るのである。此「眠り流し」の風も元は、船に積む形を採つた事と思はれる。

     四 蚤の浄土

而も、まだ海河に祓へ捐つべき物が、臥し処には居る。其は牀虫の類で、蚤を以て代表させて居る。おなじ奥州仙台附近には「蚤の船」と言ふ草がある。節分の夜(?)に、其葉を寝牀の下に敷いて寝れば、蚤は其葉に乗つて去ると伝へてゐるよしを谷川磐雄氏から聞いた。さて、其牀虫は「蚤の船」に便乗して、どこへ流れて行くのか。縁もゆかりもなさ相な琉球本島では、初夏になると、蚤は麦稈の船に乗つて、麦稈の竿をさして、にらいかない[#「にらいかない」に傍線]からやつて来ると言ひ「にらいかない[#「にらいかない」に傍線]へ去つて了へ」と言うて蚤を払ふ。にらいかない[#「にらいかない」に傍線]の説明が私どもの祖先の考へて居たとこよの国[#「とこよの国」に傍線]と近よつて来るのである。
にらいかない[#「にらいかない」に傍線]と言ふのは、海の彼方の理想の国土で、神の国と考へられてゐる処である。儀来河内《ギライカナイ》、じらいかない[#「じらいかない」に傍線]など、色々に発音する。神はこゝから時に海を渡つて、人間の村に来るものと信じて居る。人にして、死んでにらいかない[#「にらいかない」に傍線]に行つて、神となつたものゝ例として遺老説伝には記してゐる。南方、先島《サキジマ》列島に行くと、此浄土の名をまやの国[#「まやの国」に傍線]といふ。先島列島の中、殊に南の島々の寄百姓から出来た八重山の石垣島は、此場合挙げるのに便宜が多い。
宮良《メイラ》といふ村の海岩洞窟から通ふ地底の世界にいる[#「にいる」に傍線](又、にいる底《スク》)と言ふのがあるのは、にらい[#「にらい」に傍線]と同じ語である。此洞からにいるびと[#「にいるびと」に傍線](にらい人[#「にらい人」に傍線])又はあかまた・くろまた[#「あかまた・くろまた」に傍線]と言ふ二体の鬼の様な巨人が出て、酉年毎に成年式を行はせることになつてゐる。青年たちは神と言ふ信念から、其命ずる儘に苦行をする。而も村人の群集する前に現れて、自身踊つて見せる。暴風などもにいる[#「にいる」に傍線]から吹くと言つてゐる。さう言へば、本島でも風凪ぎを祈つて「にらいかない[#「にらいかない」に傍線]へ去れ」と言ふことを伊波普猷氏が話された。にらいかない[#「にらいかない」に傍線]は本島では浄土化されてゐるが、先島では神の国ながら、畏怖の念を多く交へてゐる。全体を通じて、幸福を持ち来す神の国でもあるが、禍ひの本地とも考へて居るのである。唯先島で更に理想化して居るのは、にいる[#「にいる」に傍線]を信じる村と、以前は違つた島々に違うた事情で住んでゐた村々の間で言ふ、まやの国[#「まやの国」に傍線]である。春の初めにまやの神[#「まやの神」に傍線]・ともまやの神[#「ともまやの神」に傍線]の二神、楽土から船で渡つて来て、蒲葵《クバ》笠に顔を隠し、簑を着、杖をついて、家々を訪れて、今年の農作関係の事、其他家人の心をひき立てる様な詞を陳べて廻る。つまり、祝言を唱へるのである。にいるびと[#「にいるびと」に傍線]もやはり成年式のない年にも来て、まやの神[#「まやの神」に傍線]と同様に、家々に祝言を与へて歩くことをする。

     五 祖先の来る夜

かうした神々の来ぬ村では、家の神なる祖先の霊が、盂蘭盆のまつ白な月光の下を、眷属大勢ひき連れて来て、家々にあがりこむ。此は考位《ヲトコカタ》の祖先の代表と謂ふ祖父《オシユメイ》と、妣位《ヲンナカタ》の代表と伝へる祖母《アツパア》と言ふのが、其主になつて居る。大人前《オシユメイ》は、家人に色々な教訓を与へ、従来の過ち・手落ちなどを咎めたりする。皆顔を包んで仮装してゐるのだから、評判のわるい家などでは、随分恥をかゝせる様なことも言ふ。其家では、此に心尽しの馳走をする。眷属どもは、楽器を奏し、芸尽しなどをする。
此行事は「あんがまあ」と言ふ。語原は知れぬが、やはり他界の国土の名かと考へられる。私はある夜此行列について歩いて、人いきれに蒸されながら考へた。有名な「千葉笑ひ」、京都五条天神の「朮《ウケラ》参り」の悪口、河内野崎参りの水陸の口論、各地にあつたあくたい[#「あくたい」に傍線]祭りは、皆かうした所に本筋の源があるのではなからうか。さう思つてゐる中に、大人前《オシユメイ》がずつと進んで出て、郡是として、其年から励行する事になつた節約主義を、哄笑を誘ふ様な巧みな口ぶりであてこすつた。村の共通な祖先が出て来て、子孫の中の正統なる村君のやり口を難ずるのに対して、村君も手のつけ様がなかつた理由が知れる。其が尚他の要素を含んで、あくたいの懸け合ひが生れて来たのであらう。
此三通りの人と神との推移の程度を示す儀式が、石垣一島に備つてゐるのである。此神も人も皆、村の青年の択ばれた者が、厳重な秘密の下に、扮装して出るのである。先島の祖先神は、琉球本島から見れば極めて人間らしいあり様を保つて居る。にいる人[#「にいる人」に傍線]と言ふ名は、神の中に人間の要素を多く認めてゐるからなのである。而も、島人の中には、にいる[#「にいる」に傍線]を以て奈落の首将と考へて居る人もある程に、畏怖せられる神である。其は、地下の死後の世界の者で、二体と考へてゐるのは、大人前・祖母の対立と同じ意味であらう。さすれば、死の国土に渡つて後、さうした姿になつたと考へたか、元々さうした者の子孫として居たのか識らぬが、同根の語のにらいかない[#「にらいかない」に傍線]の説明には役立つ。
にらい[#「にらい」に傍線]に対するかない[#「かない」に傍線]は対句として出来た語で、にらい[#「にらい」に傍線]が知れゝば、大体は釈ける。にらいかない[#「にらいかない」に傍線]は元、村の人々の死後に霊の生きてゐる海のあなたの島である。そこへは、海岸の地の底から通ふ事が出来ると考へる事もある。「死の島」には、恐しいけれど、自分たちの村の生活に好意を期待することの出来る人々が居る。かうした考へが醇化して来るに連れて、さうした島から年の中に時を定めて、村や家の祝福と教訓との為に渡つて来るものと考へる事になる。而も、此記憶がさうなつて久しい後まで断篇風に残つて居て、楽土の元の姿を見せて居るのである。
琉球諸島の現在の生活――殊に内部――には、万葉人の生活を、その儘見る事も出来る。又、万葉人以前の俤さへ窺はれるものも、決して尠くない。私どもの古代生活の研究に、暗示と言ふより、其儘をむき出しにしてくれる事すら度々あつた。私は今、日琉同系論を論じてゐるのではない。唯、東亜細亜の民族と同系を論ずる態度と、一つに見られたくない。此論が回数を重ねるほど、私の語は、愈《いよいよ》裏打ちせられてゆくであらう。

     六 根の国・底の国

祓禊《ハラヘミソギ》の基礎となる観念は、やはり唯海原に放つだけではなく、此土の穢れを受けとる海のあなたの国を考へて居たものと思はれる。船に乗せて流す様式が、祓の系統にあると言ふ事は、其行き着く土を考へに持つて居るのである。「かくかゝ呑みてば、気吹戸《イブキド》にいますいぶきどぬし[#「いぶきどぬし」に傍線]と言ふ神、根《ネ》の国・底《ソコ》の国にいぶき放ちてむ。かくいぶき放ちてば、根の国・底の国にいますはやさすらひめ[#「はやさすらひめ」に傍線]と言ふ神、持ちさすらひ失ひてむ」とある六月晦大祓の詞は、必しも此土に居た古代人の代表的な考へと言ひきる事も出来まいし、又祝詞の伝誦が、久しく口頭に委ねられて居る間の自然の変化や、開化時代相応の故意の修正のある事が考へられるのであるから、多少注意はいる。が、日本の宗教が神学体系らしいものを持つて後も根の国を海に絡めて言つて居るのは、唯の平地や山辺から入るものとし、単に地の底とばかりで、海を言はぬ神話などよりは、形の正しさを保つて居るものと言ふ事が出来る。出雲風土記出雲郡宇賀郷の条に、
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即、北海の浜に磯《イソ》(大巌石の意)あり。名はなつきの磯[#「なつきの磯」に傍線]と言ふ。高さ一丈許。上に松の木を生ず。磯までは、邑人朝夕に往来する如く、又木の枝も人の攀引する
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