く元服をする。男の元服は、近世では普通剃刀を入れて、前髪を剃る事でありましたが、女にも元服はありました。嫁入らないでも、鉄漿をつける風もありました。昔は男でも、女でも、元服の式を二段に受ける、即二度する。近世は、子供から青年になる時一度といふ事に大抵なつて居りましたが、昔は村や町の若者仲間に入る場合と、其からもう一つ、もつと小さい時のがあつて、それが古風でした。女にも、其があります。女は普通七八つで、一度裳着といふ式をして、裳を着ける。男では其を袴着といひました。男も女も其までは、着物に隠れた腰の部分は、掩ふものが許されなかつたのです。其が裳をつけると娘の資格を認められたしるし[#「しるし」に傍線]になるのです。男になるのも、下袴を着けて、掩ふべき処を蓋ふ。其から次に、自由に異性に会ふ資格を得る成年式が来るのです。此方が世に謂ふ元服なのです。此第二回目の元服は、結婚と同じやうな……結婚の為にする式と云つても殆どさし支へないのです。
女の人が鉄漿をつけるのは、嫁入りしてからと考へて居りますけれども、此鉄漿といふものは、女になつた事を外部に現すだけのことであつたと思はれます。だから其済まない前は、性の方面は解放せられて居ませんでした。只今でも、地方によつては、結婚以前の者、或は成年式を経ぬ人間と、結婚以後、或は一人前の男になつた後の者とでは、其扱ひ方が別なのです。壱岐の島へ行つて見ますと、未婚の男が亡くなると、幾つになつて居ても、首に頭陀《づだ》袋を下げて、墓へ送る。さうして途々摘んだ花を、其袋に入れてくれる。懐しいあはれな風であります。この二段の元服の式が、後世大抵一回きりになつてしまつた様ですが、今も尚俤だけは残して居る処もあります。平安朝までは、其でも稍《やや》明らかに、二度の元服式があつた様に見えます。精通期以前の女に、男が触れると穢《けが》れであるとして、信仰的に忌まれたものでした。只今でも、漁師などには信じて居る者があるやうです。此は宗教上の罪悪と見做すのが、ほんとうなのです。精通期を越した女には、漠然とながら、男に会ふ事を黙認してゐたのが、近世までの久しい風習でありました。此からは村の娘といふ共有観念を、村の成年式をあげた若い男が持つ様になるのです。
で、愈きまつた亭主を有つ場合は、婚姻の試みを受けました。初夜に処女に会ふのは、神のする神聖な行事でありました。実際は神が来るのではなくて、神事に与つて居る者が試みる。つまり初夜権といふので、日本でも奈良朝以前には、国々村々の神主といふ者は、其権利を持つて居つた痕跡がある。其が今でも残つて居る。瀬戸内海のある島には、最近まで其風があつた様です。此は、結婚の資格があるかどうかを試すのだといひますが、決してさういふ訣ではない。又さうした権利が、長老及び或種の宗教家にあると考へるだけでは、足りませぬ。村々の女は一度正式に神の嫁になつて来なければ、村人の妻になれない。一度神の嫁――神の巫女になつて来なければならぬといふ信仰が根本にあるのです。それの済んだ者は、自由に正式の結婚が出来た。其が済まなければ、正式の夫をもつ事が出来なかつた。
ところが後世は、其までうつちやつて置いて、愈結婚といふ時に、始めての夜に、処女の所へ来る者があるのです。其は神の名に於て、ある神人が来る。其は神事に与つて居る者が、神様になつて来る。我が国でも、中部の山の多い地方へ行きますと、其来られる神をえびす様[#「えびす様」に傍線]として、空想して居る所があります。沖縄地方にも其があります。夫は遊所へ出かけてしまつて、縁女は一人初夜の家にとまる。さういふ証拠は沢山あります。
人の妻になる以前は、処女はどうであるか。厳重に貞操を守つて居つたかといふと、此は守つて居つたとも言はれ、守つて居らなかつたとも言へる。近頃まで村の娘といふものは、村中の若い衆の共有だといふ様に考へて居りました。そして外の村の者が侵入すると、ひどい目に遭はせる。処女のある家へは、自由に泊りに行き、後には隠れ忍んで行く。此は半分大びらで、夜は男が来るのを許さなければならなかつたのです。此は維新前、或は其後も田舎では続いて居たやうです。
其がどこから来たかといふと、此は神祭りの時に、村の神に扮装する男が、村の処女の家に通ふ。即、神が村の家々を訪問する。その時は、家々の男は皆出払つて、処女或は主婦が残つて神様を待つて居る。さうして神が来ると接待する。つまり臨時の巫女として、神の嫁の資格であしらふ。「一夜妻《ヒトヨヅマ》」といふのが、其です。決して遊女を表す古語ではなかつたのです。此は語学者が間違へて来たのも無理はありません。一夜だけ神の臨時の杖代《ツヱシロ》となる訣なのです。
村の若い男――一定の年齢の期間にある男、前に言つた元服をした男は、神に扮装する義務と、権利とがあつた訣なのです。一年の間に其神が、村の家々に来り臨む日がある。其日に神に姿をやつして、村の家々へ行く。さうすると巫女なる女が残つて居て、即まれびと[#「まれびと」に傍線]を接待して、おろそかにせないのです。つまり神が其家へ来られたのを饗応する。
ところが段々其意味が忘れられて来まして、唯の若い衆である所の男が――神の資格を持たない平生の夜にも、――処女のある家には、通ふといふ風習に変つて参りました。だから、単なる村の人口を殖《ふや》さうなどゝいふ考へから出た交訪ではなくて、厳粛な宗教的の意味から出発してゐたのです。若い衆は神の使ひ人、同時にある時期には、きびしい物忌みをして神になるものといふ信仰から出た制度であります。其で、神が来臨する祭りの夜は、男は皆外へ出払つて居つて、巫女たるべき女が残つて居る。さうした家々へ神人が行く。饗応をも受ければ、床も共にして、夜の明けぬ前に戻る。さうして若《も》しも其晩子が寓《ヤド》ると、言ふまでもなく神の子として、育てたのです。決して人間の胤と考へない。
四
さうした形の外に、まだ神秘な一夜の神婚の場所がありました。神祭りの晩には、無制限に貞操が解放せられまして、娘は勿論、女房でも知らぬ男に会ふ事を黙認してゐる地方がありましたし、まだ、風習のなくなりきらない村もあるやうです。其は蛮風といへば蛮風ですが、其だけの歴史的基礎があるのです。古代信仰の変形が存してゐる訣なのです。結婚以前に、それ/″\神が処女の処に来る風が、初夜権以前に重つて来た次第です。其で、もう一度正式に神の試みがある様になつたものと思はれます。其で結婚の資格が出来るのが、原則だつた様です。此事が解せられぬと、古事記・日本紀、或は万葉集・風土記なんかをお読みになつても、訣らぬ処や、意義浅く看て過ぎる処が多いのです。
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誰《タ》そや。この家《ヤ》の戸《ト》押《オソ》ぶる。新嘗《ニフナミ》に、我が夫《セ》を行《ヤ》りて、斎《イハ》ふ此戸を(万葉集巻十四)
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万葉集の此歌は、女房が、巫女をする場合です。
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にほとりの 葛飾早稲《カツシカワセ》を贄《ニヘ》すとも、彼《ソ》の愛《カナ》しきを、外《ト》に立てめやも(万葉集巻十四)
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それから又斯ういふ風な歌は、皆前に言つた家族の出払つて、其後へ神が這入つて来ることを詠んだもので、此は非常に厳粛な宗教的年中行事でありまして、さうした夜に神の外に、男の忍んで来るといふ筈がない。併し、其習慣が少し緩んで来て、一部は記憶の領分に入つて来た頃に出来た民謡と言ふ方がほんとうです。幾分は現に行はれても居る事実で、其事実と空想を捏ち合せて、一種の妙な交錯した意味を感じた。其が、かうした、やゝ劇的な興味を含む民謡を生んだのでせう。
夫に嫁いだ上の貞操といふ事は、別問題です。縁づかぬ前の貞操と嫁入つて後の貞操とでは、根本観念が変つて居たのです。其が混乱を起すといふのは、神の為に臨時の嫁(一夜妻)になつた行事から、考へ方がこがらがつて、古代の貞操観念或は、今も庶民の夫婦関係といふ事が、いろ/\複雑になつて来たのです。此点では、尚色々とお話がありますが、際限がありませぬ。私の話は恋愛問題でなくて、恋愛前の問題に止りました訣です。
やつぱり一つ申し添へぬと、結末のつかぬ様に考へます。其は初めに申しました様に、万葉集に現れた恋愛の歌は、悉《ことごと》く恋愛の実感から叫ばれた作物と思うて来たのは、間違ひであります。此事を言ひたいのです。名高い物になつた恋愛の歌といふものは、応用的のもので、実感を湛へたものでない。
歌垣の話ですが、最後にあげました村人が神の庭に集まる神祭りの場合、村中の男と女とが、極めて放恣な――後世から見て――夜の闇に奔馳する。さうした事は、神の資格に於て、村の男が、神の巫女なる村の女に行き触れて居たのです。祭り場の空気が、そこまで有頂天に人々をさせる迄の間は、男方と女方とに立ち場処を分けて、歌のかけあひ[#「かけあひ」に傍線]をする。男方から謡ひ出した即興歌に対して、女方からあとをつけるといふ儀式がある。此を歌垣と言ひ、方言ではかゞひ[#「かゞひ」に傍線]・をづめ[#「をづめ」に傍線]などと言うたらしい。男と女のかけあひ[#「かけあひ」に傍線]だから、性的な問答が中心になる。而も相手を言ひ伏せる様な文句が闘はされるのです。性愛の相手を求めるのでなく、語《ことば》争ひがかうした儀式の目的なのです。だから、其間にとりかはされる恋愛問答の歌は、相手の足をすくはうとか、凌駕しようとかいふ点に、焦点を据ゑます。さうして発達した――かういふ場合が短歌を伸びさせたのです――恋愛の歌は、大抵内容のない誇張した抒情詩になる。語の上の争ひに陥る。平安朝になつても、大抵恋愛問答といふものは、さういふやうな詞の上だけで、人をたらす[#「たらす」に傍点]やうなものになつて行つた。
日本の初期の恋歌は、恋愛の実感から出て居るものではない。神の祭りの夜のかけあひ文句[#「かけあひ文句」に傍線]――いはゞ揚げ足取りのやうなもの――から出ました。それだから、其恋愛に、真実味といふものがない。あるのは無意識の性の焔と、機智の閃きとです。さうして出来た恋歌の、稍醇化せられかけた万葉集の牧歌的気分に充ちた半成の抒情詩を、人は誤解して居ます。万葉人はすべて、命がけで恋愛生活に没入して行つたといふ風に考へるのです。唯強い性の自在を欲する潜熱に、古代人の生活の激しさが見えるだけです。
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稲|舂《ツ》けば、皹《カヾ》る我が手を。今宵もか、殿《トノ》の若子《ワクゴ》が 取りて歎《ナゲ》かむ(万葉集巻十四)
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奴隷の女(婢)の悲痛な恋愛の様にとられて、感激させられ易い歌です。但《ただし》、かういふ歌は、作られた場合と、其が伝誦せられた道筋がわからない。さう言ふ歌が沢山ある。其情熱は、けれども、劇的のものであり、背景をなす生活状態に、戯曲風の感動を導くものです。かう言ふ気分を民謡に謡ひ出したといふのは、古代人の粗野な、残忍な性愛の上に、段々醇化が行はれて来た証拠なのです。
其には歌垣のかけあひ[#「かけあひ」に傍線]といふ事が働いて居る。つまりさうした処から日本人の恋愛観は進化して来た。歌垣の秀歌が段々世間にうたひ広められて、人々の頭へしみ込んで行つた。そこで、日本人にほんとうの恋愛といふものが生れてくる。奈良朝では、末期に至つて、純粋な恋愛詩がいくらか出て来たに過ぎないと言ふ外ありませぬ。其にも、段々議論がありますが、要するに万葉集の恋愛歌を純なものとして考へて居るのは、間違ひである。遊女の作つた歌みたやうな気持ちがある。
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あしびきの山の雫《しづく》に、妹待つと、我立ち濡れぬ。山の雫に(大津皇子――万葉集巻二)
我を待つと、君が濡れけむ あしびきの山の雫にならましものを(石川郎女――万葉集巻二)
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かういふ唱和の歌を見ますと、後の女の歌は、如何にも人をたらす様な、篤さの尠い物だと感ぜられるで
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