時でなくてはならぬ。塔が卒塔婆から出、ぱん[#「ぱん」に傍線]が洋人の食料を学んだと言ふ様な伝来の径路の、知れきつたものゝ外は、てら[#「てら」に傍線](寺)なる語が、外来語であると言ふ定説も、ほとけ[#「ほとけ」に傍線]の語原などにも、一応は疑ひを持つて見る必要がある。ふれぃざぁ[#「ふれぃざぁ」に傍線]教授の様に、多くの資料をえ提供しない限り、若干の文献の抜き書きを列ねる位では、唯の比較研究すらも危いと思ふ。茲に、私の眼界の狭く止つてゐる所以がある。
顧みて恥ぢないものがあるとすれば、語原の解釈法である。口頭伝承による詞章ばかりが、存続性を持つた時代には、用語例の理会が、常に変化してゐた。聯想が無制限にはたらくのである。ある一語の語義の固定した時代は、その言語の可なり発達を遂げた後であつた。後世、語原と見做されてゐるのは、わりに、整然とした論理を具へたものである。さうした時代の用例を出発点としてゐる語原説は、発足地に誤謬がある。其以前の自由な時代の形式・内容の変化が、固定した推移の過程は、一向に顧みられないでゐた。品詞や文法の発生を考へる時、我々は常に、ある完成を空想してゐる。

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