へられた人である。其前に、家つきの息子がゐた。その名の岡本屋彦次郎を、お家流を脱した、可なりな手で書いたのを見て、幾度か、考へさせられた。四書や、唐詩選・蒙求の類も、僅かながら、此人の稽古本として残つてゐる。家業がいやで、家に居れば、屋根裏部屋――大阪風の二階――に籠りっきり、ふっと気が向くと、二日も三日も家をあけて、帰りにはきつと、つけうま[#「つけうま」に傍点]を引いて、戻つて来たと言ふ。継母の鋭い目を避けて、幾日でも、二階から降りて来なかつた。其間の所在なさに、書きなぐつた往来文や、法帖の臨書などが、いまだに木津の家の蔵には残つてゐる。果ては、久離きられた身となつて、其頃の大阪人には、考へるも恐しい、僻地となつてゐた熊野の奥へ、縁あつて、落ちて行つたさうである。其処で、寺子屋の師匠として、わびしい月日を送つて、やがて、死んで行つた事も、聞えて来たと聞く。夢の様な、家の昔語りの、幼い耳の印象が、年を経るに従うて、強く意味を持つて響いて来る。
かうした、ほぅとした一生を暮した人も、一時代前までは、多かつたのである。文学や学問を暮しのたつきとする遊民の生活が、保証せられる様になつた世間
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