い。
私には、この別化性能に、不足がある様である。類似は、すばやく認めるが、差異は、かつきり胸に来ない。事象を同視し易い傾きがある。これが、私の推論の上に、誤謬を交へて居ないかと時々気になる。「無頼の徒の芸術」その外に出た、念仏芸能の観察が、私には、定説としての確さを持つてゐるが、他人には納得させにくい。最親しい旧友で、厳重に考証態度を守つてゐる若い正史編纂者の、微笑と渋面とを交へた抗議を受けたのも、其為であると思ふ。これは差異点の説明に、巧でないからである。踏歌・呪師・田楽・鎮花祭舞踊の文献や、残形を見ると、念仏踊りの要素となつたものが、うんとある。殊に、実地に見て歩いた経験を比較すると、田楽・念仏の共通点ばかりが目について、従来考へられて来た様な区劃は、心の中に没して了ふ。念仏踊りや念仏宗などの起原や相互作用の、鎮花祭や、祇園御霊祭りや、田楽などにある事が覚られる。けれども、其分派の状態や、世間が持つてゐた差別観の根拠などは、も一つ茫漠としてゐる。
近代の田楽には、念仏踊りに近い行道や、群舞の様式が、主とせられてゐるのも、事実である。念仏踊りの中にも、田楽能から移したらしい能狂言―
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