放射光は、恰も、私の進む道を照してゐたのである。秋成や守部の様な批評家でない自分は、憂鬱な伝統知識の圧《オ》しの下に、何だか、不満な気分を抱いてゐたばかりであつた。其が、微かながら、跳ね返す力を得て来た訣である。個々の知識の訂正よりは、体系の改造である。彼二人の皮肉屋の、閃く如き鋭さよりは、重胤の、鈍い重さの広く亘る力を思ふべき気稟であつた。新しい国学は、古代信仰から派生した、社会人事の研究から、出直さねばならなかつた事を悟つた。此民間伝承を研究する学問が、我が国にもないではなかつたが、江戸末の享楽者流・銷閑学者の、不徹底な好事、随筆式な蒐集に止つてゐた。だから、民俗は研究せられても、古代生活を対象とする国学の補助とはならなかつた。むしろ、上ッ代ぶり・後《オト》ッ代《ヨ》ぶりの二つの区劃を、益明らかに感じさせる一方であつた。私は、柳田先生の追随者として、ひたぶるに、国学の新しい建て直しに努めた。爾来十五年、稍、組織らしいものも立つて来た。今度の「古代研究」一部三冊は、新しい国学の筋立てを摸索した痕である。
此書物の中から、私の現在の考へ方を捜り出さうとするのは、無理である。実は、今におき、悩んでゐる。日々、不見識な豹変を重ねてゐるのだから。
国文学篇の最初の「国文学の発生」は、あの上に今一つ、第五稿を書きさしてゐる。四つの論文をお読みになつた方は、定めて、呆れて下さつた事であらう。民俗学篇でも、「村々の祭り」と「大嘗祭の本義」との間には、実際、御覧に入れたくないほど、考への変化がある。この論文は、半年も立たぬ間に、出来たものなのである。其でゐて、かうである。かうした真の意味の仮説を、学界に提供する事は、わるいとも言へよう。又、よいとも言へる。其は、結論を度外視した顔のとりすました学者の為に、一人で罪を負ふ懺法としての、役に立ちさうだからである。慎重な態度を重んずる、庠序学派の人々は、此を、自身の学問と一つに並べるをさへ、屑しとせないであらう。殊に、民俗学の世界的権威にして、我々が「あがほとけ」とも斎くべきふれぃざぁ[#「ふれぃざぁ」に傍線]教授も、その態度からは、かう言ふ発表方法を認めない事が、明らかである。出来るだけ、揺ぎない道を立てようとする。其方法としては、及ぶ限り資料を列ねて、作者の説明がなくとも、結論は、自然に訣る様になつてゐる。我が柳田先生も亦、此態度
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