思ふ。この神は、色々な意味を兼ねた言葉を、唱へ出した神であつた。「思ふ」といふ言葉を、我々は、内的な意味に考へてゐるが、昔は、唱へごとをするといふ意味があつたと思はれる。かけまくもかしこき[#「かけまくもかしこき」に傍線]といふ言葉には、発言と思考といふ意味がある。これとおなじく「思ふ」にも、唱へごとをすることを意味した用例があつたらしい。思兼といふのは、色々な意味を兼ねて考へる、さういふ言葉を拵へた神の名であつた。即言葉は、一語にも、色々な意味を兼ねたのである。
かういふ訣で、日本の言葉は、どうにでも解ける。此を又、尊いとも考へて居た。が、始めからではなく、段々かういふ風に、兼ね思ふ様になつて来たものである。此を同音異義などゝいふことでは、説明出来ない。病気の祷りが、同時に、田畑の祷りや、悪魔退散の祷りであつたりする。即、言語の上に、譬喩的な効果を、出来るだけ豊かに、考へてゐた時代が、古くからあつたのである。結局は、此を唱へるのに、効果ある口頭伝承が少いため、それをいろ/\に融通する事になるので、どうしても、八心思兼でなければならなくなる。即、一つの文章や単語が、いろ/\の意味に考へられるのである。此処に、日本の言語伝承が、推移せねばならぬ理由があつた。
此推移の中、一番、目につくのは、文法意識の変化であるが、余り興味のある事ではないから、こゝでは省略しておく。
四
ところが、我々の使用してゐる文法は、誰でも、平安朝の文法だといふが、此平安朝のでさへも、まだ/\しつかりした研究には、達してゐない。只単に、抽象的な文章論はあるが、単語の方は、一向に発展してゐない。此は、文法を発生的に考へないからである。これからも段々、時代々々の文法の書物が出てくると思ふが、時代に添うて、自然に意義が、発生展開して来る点を見るやうにならねば、無意義なことゝ思ふ。平安朝の文法で、古事記なども読んでゐる。古訓古事記でさへもさうであつて、決して、それ以前のものではないのである。今の神職などの祝詞も、平安朝の調子である。
平安朝になつて、みやすどころ[#「みやすどころ」に傍線]といふ語が、忽然と出てくる。此は後に、意味が段々変化したが、普通、天子の御子を産んだ人が、みやすどころ[#「みやすどころ」に傍線]といふ名を得た。此など、訣らない語である。やすみしゝ[#「やすみしゝ」に傍
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