れた事実の説明以上に出るものではない。殊に韻なり律なりをもつて居る文章においては、通常の散文の上に尚附加せられた若干の部分性があるので、益々以て訓詁ばかりでは足らぬといふことがわかつて来るのである。こんなことは、誰しも考へてることで、事新しくいふのが、却てをかしなくらゐのものであるが、さて実際には、一向忘れられて居る姿である。訓詁は訓詁で何処までも止まず研究して、部分性を拡充してほしい。一部の人の様に、訓詁を等閑《ナホザリ》にするものとは訳が違ふのである。従来の訓詁一点ばりの説明でも、多少事が足つたのは、聴く人の観念聯合に俟つ所が多かつたのは勿論、一面には、また複雑な文章に逢着することの尠かつたのにもよらうし、又意味の徹底といふことを思はなかつた為でもあるといはなければならぬ。
最も完全な素質を備へた読者が、文章に対して得《ウ》るだけの内容を、出来るだけ適当に忠実に伝へるのが、解釈のねらふ点ではあるまいか。本居翁の古今集遠鏡の如きは、比較的内容を出さんとするに努められた痕が明かで、一読すれば、翁の頭脳の明確なのに驚くばかりであるが、まだ/\言語形式ばかりに囚へられて居た痕が見える。けれ
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