の正月十五日の祭礼がある。東天紅なる時は、正に顕・幽両界の境目で、祭りに招き降された神が社からあがられるのは、此時刻である。此刻限にぴつたり神あげをする事は、神にも人にも、都合のよいことである。鶏鳴以後迄、神を止めて置かうとしたら、神の迷惑はどの様であらう。また若し其に先だつて、鳴き立てる鶏があつたら、神は事をへぬ中に、はふ/\退去にならねばならぬ。鶏をして、さやうな偽りを告げさせた責任者として、人間もとんだ罰を蒙らねばならなかつたであらう。時ならぬ鶏の宵鳴きを、色々の凶事の前兆に結びつけて居るのは、やはり此処に本のあるのを忘れての事と思はれる。
鶏の音に驚かされて、為すこと遂げずに退散した話、うろたへて身を傷けた話など、神・仏・妖怪などの上にかけられた例が、此国にも沢山ある。
大歌所のひるめ[#「ひるめ」に傍線]の歌
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さひのくま 檜[#(ノ)]隈川に駒とめて、しばし水かへ。かげをだに見む(古今巻二十)
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と言ふのは、元は大部分、万葉に見えた恋歌である。其が如何にもおなごり惜しいと言つた心持ちを湛へて居る処から、恐らくは、神あげの節に謡はれることになつて居たらうと言へる。暫くでも長く居て頂いて、完全に祭りの心を享けて貰はねばならぬ。神事いまだ終らざるに、神あがりあつては一大事である。常世の長鳴き鳥は、此時間の調節者として、必要であつたのである。なぜなら、鶏の鳴き止まぬ中は朝であつて、而もまだ夜であつたから、神事に与る役目の重さは如何ばかり強い印象を、昔びとの心から心へ、伝へて来たことであらう。人力に能ふ限りは、朝と夜の交叉点をうまく処理して行くが、ある程度以上は鳥頼みであつた。
こゝに人間の妻訪ひに於けるよりも、もつと/\色濃く、庭つ鳥の神婚譚に入り込んで来ねばならなかつた訣のある事が、既にしのゝめのほがらにあなた方の胸に這入つた事であらうか。
神事の終りに、唯一度拍子とるだけが役目の鶏を、合奏団の大事な一員と考へられて居る。此は、天の窟戸開きの条の誤解である。心を澄して御覧なさい。神道のほんとうの夜明けの光りは、今思はぬ方角からさしかゝつて居る。



底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
   1995(平成7)年3月10日初版発行
初出:「やまと新聞」
   1920(大正9)年1月
※底本の題名の下に書かれて居る「大正九年一月「やまと新聞」」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※底本では「訓点送り仮名」と注記されている文字は本文中に小書き右寄せになっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年12月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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