神はうろたへて、小舟に乗ることは乗つたが、櫂は岸に置き忘れて来た。拠なく手で水を掻いて戻られると、鰐が神の手を噛んだ。此も鶏のとが[#「とが」に傍線]だと言ふので、美保の神は、鶏を憎む様になられた。其にあやかつて、美保関では鶏は飼はぬ上に、参詣人すら卵を喰ふことを戒められて居る。喰へば必、祟りを蒙ると言ひ伝へて居る。
鶏を憎まれる神様は、国中にちよく/\ある。名高いのは、河内道明寺の天満宮である。
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鳴けばこそ 別れも急げ。鶏の音の聞えぬ里の暁もがな
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と学問の神様にも似合はない妙な歌を作つて、養女苅屋姫に別れて、筑紫へ下られてから、土師《ハジ》の村では、神に憚つて、鶏は飼はぬことになつた(名所図会)。此などは、学徳兼備の天神様でさへなければ、苅屋姫をわざ/\娘は勿論、養女であつた、と言ふ様な苦しい説明をする必要もなかつた筈である。
女の許へ通ふといふ事は、近代の人の考へでは、村の若衆を外にしては、眉を顰《ひそ》めてよい淫風であつた。天神様が、隠し妻の家からの戻りに、鶏の音を怨まれたとあつては、あまりに示しのつかぬ話である。其処に家から来た娘と、別れを惜む事になつて来ねばならぬ訣がある。思ふに、土師の村の社には、いつの頃にか、美保式の神婚の民譚がついて居たのを、たつた一点を改造した為に、辻褄の合うた様な、合はぬ様な話が出来上つたのであらう。事実、天神・苅屋親子関係を信じきつて居る今時の役者たちすら「手習鑑」の道明寺の段で、一番困るのは、右の子別れだ相である。女夫の別れと見えぬ様との、喧しい口伝もあると聞いて居る。妙な処に、尻尾の残つて居るものである。
あの芝居で、今一つの中心は、東天紅の件であるが、目に見えぬ過去からの網の目が、浄瑠璃作者の頭にかぶさつて居た為に、宿禰太郎夫婦の死と言ふ様な大事件を以て解決せねばならなかつたのである。
今日でも、まだ到る処の宮々に、放ち飼ひの鶏を見かける。とき[#「とき」に傍線]をつくらせたり、青葉の杉の幹立の間に隠見する姿を、見|栄《はや》さうと言つた考へから飼うて置くのでない事は、言ふ迄もない。あれは実は、あゝして生けて置いて、いつ何時でも、神の御意の儘に調理してさし上げませう、とお目にかけて置く牲料《ニヘシロ》で、此が即、真の意味のいけにへ[#「いけにへ」に傍線]なのである。
白い鶏が神饌に供へられる事は、其例多く見えて居るが、必しも白い物ばかりを飼うて居た訣ではなく、偶々、民家の家畜の中にも、白い羽色のが生れると、献るべき神意と信じ、御社へあげ/\して来た事であらう。古風な江戸びとは、いまだに卵を産まなくなつた鶏を、浅草寺の境内へ放しに行く。内容は変つても、尠くとも、形式だけはまだ崩れないで居る一例である。喰べると癩病になると言はれる鳥に、燕・鷲並びに、此鶏がある。前二者は、喰べろと言はれても遠慮する人が随分とあり相である。が鶏を封ぜられては困る者、啻《ただ》にかしは屋[#「かしは屋」に傍線]ばかりとは言はれまい。
鶏には、特に白と言ふ修飾が加つて居るので、息をつく。豊後大野郡辺では、白い鶏を喰ふと、かったい[#「かったい」に傍線]になる(郷土研究第三巻)と言ひ習はして居る。白鶏が、神の牲料と信じて居たればこそ、其を横どりする者は、極刑を受けると考へられたので、原因を振り落して、単に結果だけが言ひ伝へられたものと思ふ。考へ方によつては、白い鶏でなくても、鶏はすべて、ある神専用の牲料と思はれたであらう。美保関で卵を喰はぬと言ふのも、一つ起りから出た事は察せられる。山陽・畿内の二个村の鶏を飼はぬのも、神の占め給うた家畜なるが故に、善い意味からは御遠慮申し、悪い意味からは不時の御用命を迷惑がつて、忌み憚つて来たものと言はれよう。併し此を以て直ちに、事代主神婚譚を構成した原因などゝはきめられない。畢竟は相当因縁を持つた民間伝承が、お互に別々に進んで来る中に、相合すべき状態になると、他の一つは、其に引きよせられるものと見てさしつかへはない。お互に原因になり、結果になる事が出来るのである。
神妻訪ひの話に、鶏の参与するのも、田舎人の生活が、其儘幽界の方々の上にもあることゝ信じて、言ひ出したことは勿論であるが、今一つ、鶏がとんでもない憎まれ者になる訣は、責任を転嫁したり、情痴趣味に浸つたりすることを知らなかつた万葉びと以前の、古代の男女関係ばかりからは、何とも合点が行きかねる。今でも古風を存して居ると信ぜられて居る祭りの中心行事は、必、真夜中に行はれる。鶏鳴がほゞ神事の終りと一致する様に、適当に祭式をはこばねばならなかつたものと見えて、日の出にかつきり主要な部分をしまうて居なければ、今年の作物に祟ると信じてゐる地方が多い。
其例に、信州下伊那新野の伊豆権現
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