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なこひそ吾妹 かづらせ吾妹
ひもとけ吾妹
命死なまし甲斐の黒駒
そこし恨之(?)秋山われは
つかへ奉れる貴之見れば
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と言ふ様な形ならば、呼格として意味は明らかである。
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あひ見ずて、日《ケ》ながくなりぬ。このごろはいかに好去哉《ヨケクヤ?》 いぶかし。吾妹(万葉巻四)
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の如きは、既に一面呼格であり乍ら、「なつかしき吾兄」といつた意義から差別がつきにくゝなつてゐる。此が一段前の形は、その不即不離の状態が明らかでない多くの例に現れてゐる。つまり、普通呼格の上に形容詞がある時、其が総て、文章成分の顛倒したものと解せられて来てゐるが、実はさうなつて来るまでの過程に「なつかし吾兄」が「吾兄なつかし」の気分的表現でなく、「なつかしき吾兄」の意義を持つた時代があつたのである。つまり、さうした文章上の事実が、実は句或は単語に於ける形式の延長であつたのだ。私は唯この点に、尚幾多の疑問は持つてゐるが、併し乍ら、形容詞の終止形「し」の形が、語根から屈折を生じて独立したと言ふ事の原因には、さうした連体句が倒置せられて(今考へるのとは反対に)来、又さうした意識を以て見る習慣の生じた為に、この形に次第に終止としての実感を持たして来たものと言ふ事情をも、考へて見なければならぬと思ふ。
○
既に枕詞のある部分まで、その成因を説いた。併し、尚此に関係のある枕詞がある。其は「じもの」の形を語尾とするものである。此「じもの」は、飜訳の上において、明らかに二通りに区別出来るものと考へられて来てゐる。
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イ、しゝじもの 鹿児じもの
馬じもの 犬じもの
鵜じもの 鴨じもの
鳥じもの 雪じもの(露じもの?)
うまじもの(――あへ「饗」……)
ロ、男じもの 牀じもの
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と言ふ風になつてゐるが、前者は、その名詞の持つ或傾向を、全然比喩としたもの、後者は、普通「として」と訳して、前の一類の訳語と通ひ乍ら、意味のやゝ違ふ所を出さうとせられてゐるものである。其だけ、元は全然別のものでなく、意義変化した為に出来たもの、とも考へられる。其には過程として「とこじもの」を置いて見る必要がある。旅行中に草を敷き寝する有様を言つたので、牀の如く[#「牀の如く」に傍線]とも訳すれば、さうも出来る訣である。一体「男」は、「をとこ」と読むか「をのこ」と読むか訣らないものと見られてゐるが、万葉巻二の二つの用例から見れば、明らかに「烏徳」としたらしく思はれるから、「をとこ」と読んでよからう。だが、古典は古典その者の中において又、特殊の擬古的態度があり、其から来る所の大きな誤解さへも加はるのだから、幾分は「をのこじもの」と謂つてもよいといふ余裕は残して置く方が、国語発達史上却つて正しい見方、と言へるのだ。
私の話が、少し長びいたので、今一度前からの考へを、印象的に要約して置く必要がある。形容詞語尾殊に、重要な終止語尾の、独立或は固定の妥当的な感覚を導いた過程についての考へである。第一、「し」を含んだ語根時代。第二、領格としての用語例に入つた「し」の時代。第三、領格の対象語の脱落した時代。第四、語尾としての「し」の独立時代、と謂つた仮りの区劃[#「仮りの区劃」に傍点]を立てゝゐるのだが、今の私にとつては、第一期について、最大きな疑問が起つて来てゐる。其で、結局、第二・第三の時代を中心にして論じて来た訣であつた。さうして、其点において可なり必要な件をまだ後廻しにしてゐる。
所謂一類の枕詞の語尾と考へられて来てゐる、「じもの」と言ふ形である。此亦既に述べた「じ(否定)何」「らし何」と同じ発生を有するものである。尚言へば、すべての形容詞語尾は、「しもの」の過程を含んで来たもの、と考へられさへするのであつた。さうして、仮りに様々な「し何」の形を綜合すると、「しもの」と言ふ形に帰一するのは明らかだ。
若《もし》、形式論をつきつめて行くとすれば、「あなにやし えをとこ」「やすみしゝ 大君」などの古い例さへ、「あなにや えをとこ」「やすみし 大君」から更に、領格的用語例の意識を、生じずに居る訣はない。「あなにやの えをとこ」「やすみしの 大君」と言ふ意識を含んでゐない、と誰が言へよう。一方更に進んでは、「や」「ら」「か」「な」などが、すべて体言化する語尾の用をなす如く、こゝにも「……なる物……」「……物……」と謂つた感覚を以て受け入れたと考へられなからうか。
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わが待つもの [#「 」に「ナル」の注記]鴫はさやらず、いすくはし [#「 」に「モノ」の注記]くちらさやる
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と思うて来ると、やゝ論理一遍に傾くが、「じもの」の出来る道筋も知れる様だ。
「じもの」の慣用の最少いものは、記・紀である。その中、
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あをによし 奈良のはざまに、斯々弐暮能《シヽジモノ》 みづくへこもり、みなそゝぐ 鮪の若子《ワクゴ》を あさり出《ヅ》な。ゐのこ(武烈紀)
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此「しゝじもの」の用例は、他の枕詞の「しゝじもの」と余程違うてゐる様に見える。此「しゝじもの」を「みづく[#「みづく」に傍線]へこもり[#「こもり」に傍線]」の、どの部分かにかゝつてゐるやうに、説くのは苦しい。其なら寧、句を隔てゝゐるが、「しゝじもの……あさり出《ヅ》な。猪の子」と説けばよい。さう考へると、「をのこじもの」と幾分形が似て来るので、比喩とは遠ざかる。私は一体此「じもの」が歌謡にとり入れられた原因を寧、歌謡その物以外にある、と見て来てゐる。即、歌謡の歴史上において、呪詞(寿詞・祝詞)の古い様式を、長歌が率先してとり入れる様になつた飛鳥・藤原時代から盛んになつたものと見てゐる。此件については別に書いたものがある。此処には其をくり返す繁雑を避けさせて頂く。たとへば、可なり新しい例からあげると、平安初期に固定したと見るべき延喜式祝詞にも、其痕跡が見える。
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○辞別。伊勢[#(尓)]坐……皇吾睦神漏伎・神漏弥命[#(登)]宇事物[#「宇事物」に白丸傍点]頸根衝抜[#(※[#「低のつくり」、第3水準1−86−47])]……(祈年祭)
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此は、祈念祭と同様の形式をとる月次祭は勿論、どう言ふ訣か、広瀬川合祭・龍田風神祭にも用ゐてゐる。而も、「もの」と言ふ語の多く出て来る例として、
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○わが地《トコロ》とうすはきいませと進《タテマツ》るみてぐらは、明妙・照妙・和妙・荒妙にそなへまつりて、見明物《ミアキラムルモノ》[#(止)]鏡、翫物《モテアソブモノ》[#(止)]玉、射放物[#(止)]弓矢、打断物[#(止)]大刀、馳出物[#(止)]御馬、……に至るまでに、横山の如、几物に置き足らはして……(遷却祟神祭)
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が挙げられよう。他の中臣祝詞とは違ふし、斎部祝詞だけに、尠くとも発想法の古きを保つてゐることも頷ける。此点、同じ様であり乍ら、出雲国造神賀詞は、幾分新しい発想をとつてゐる。
つまり国造家の負幸物と呪詞とを関聯せしめて言ふのに、「もの」の用語例を換へて来てゐる。つまり唯の枕詞のやうにしたてゝゐるのだ。でも尠くとも枕詞として考へる以上、「じもの」に近い用語例と、「……の」と比喩法を採るのと、二つながら並行した方法なる事と合点は行く。
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朝日の豊さか登りに、神[#(乃)]礼[#(自利)]、臣[#(能)]礼自[#「礼自」に白丸傍点][#(登)]御祷《ミホキ》の神宝献らくと奏す。白玉の[#「白玉の」に傍線]大御白髪いまし、赤玉の[#「赤玉の」に傍線]みあからびいまし、青玉[#「青玉」に傍線]の[#「の」に二重傍線]水江[#「水江」に傍線]の[#「の」に二重傍線]玉の[#「玉の」に傍線]ゆきあひに、……手長《タナガ》の大御世をみはかし広に[#「みはかし広に」に傍線]誅堅《ウチ?》めて、白御馬の[#「白御馬の」に傍線]……踏み堅め……振り立つる事は、耳の[#「耳の」に傍線]いや高に、天下をしろしめさむ事志太米[#「事志太米」に傍線]、白鵠《クヾヒ》の生御調[#(能)]玩物[#(登)]、倭文の大御心も多親《タシ》に、……若水沼にいや……若えまし、すゝぎふるをどみの水の[#「をどみの水の」に傍線]……みをちまし、まそびの大御鏡の面をおしはるして見そなはす事のごとく[#「見そなはす事のごとく」に傍線]、……しろしめさむ事[#(能)]志太米と御祷の神宝を※[#「敬/手」、第3水準1−84−92]げ持ちて、神礼[#(自利)]・臣礼[#(自)]と……
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[#地から1字上げ](出雲国造神賀詞)
呪詞に起原を持つ表現法が、思ひがけない程、多く古代祝詞には相当な数はある。而も其方の「鵜じもの」と、記・紀の側では「しゝじもの」などが目につく位だ。而もある点では、奈良朝の文法の貯溜池と見られる宣命には、同じ「じもの」でも、特殊な用語例が残つてゐるのである。さうして其が、第一類の比喩表現を含む「じもの」と関係なく、第二類に極めて近いことが考へられるのだ。第二類から第一類への過程に、「牀じもの」を据ゑて見れば、稍解釈がつきさうに思はれる。我々は成立した形容詞活用に左右せられることなしに、其以前の形を考へるつもりで、まづ見てゆく必要がある。
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○朕《ワ》が臣としてつかへ奉る人等も、一つ二つを漏し落す事もあらむか、と辱なみ、愧しみおもほしまして、我皇太上天皇の大前に「恐古之物《カシコシモノ》」進退匍匐廻《シヾマヒ?ハラバヒモト》[#(保利《ホリ》)]……
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ](宣命、神亀六年八月五日)
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○汝《ナ》が命きこしめせとのりたまふ御命を「畏自物」受賜[#(理)]坐[#(天)]食国天下[#(乎)]恵賜[#(比)]治賜[#(布)]間[#(爾)]……
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[#地から1字上げ](宣命、天平勝宝元年七月二日)
此等の例を、凡に見ると、万葉の「じもの」の分化したもの、と思はれさうだ。併し、其にしては、あまり飛躍し過ぎてゐると言ふことも、同時に思ひ浮ぶであらう。ともかくも、通例の形容詞の用語例に馴れた我々には、「いまじきの間」「ましゞ・ましゞき」「われじく」或は又、「おたひし[#「し」に傍点]み」など言ふ形や、
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汝[#(爾)]冠位上賜治賜[#(夫)]。又此家自[#「家自」に白丸傍点][#ここから割り注]久母[#「久母」に白丸傍点][#ここで割り注終わり]藤原卿等[#ここから割り注]乎波[#ここで割り注終わり]掛畏聖天皇御世重[#(※[#「低のつくり」、第3水準1−86−47])]於母自[#「於母自」に白丸傍点][#(岐[#「岐」に白丸傍点])]人[#(乃)]氏(自)門[#(止(波))]……
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ](宣命、天平宝字三年六月十六日)
の如き用語例のあつた事を示してゐる宣命、及び其前型としてあつた幾多の旧宣命並びに、弘仁・延喜以前の祝詞に現れた筈の形容詞の様子を、今一度思ひ見る必要がないだらうか。
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○……ゆふべには、入り居なげかひ、わきばさむ児の泣く毎に、雄自毛能負ひみ抱きみ、朝鳥の哭のみ泣きつゝ、恋ふれども……吾妹子が入りにし山をよすがとぞ思ふ
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ](万葉巻三、高橋虫麻呂)
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○……鳥自物朝立ちい行きて、入り日なす隠りにしかば、吾妹子がかたみにおけるみどり児の、こひ泣く毎に、…………………男自物わきばさみもち、……旦はうらさび暮し、夜は息づき明し、なげゝどもせむすべ知
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