となので、此まで、文法家が、其引用の大部分に律文及びその系統の文を引いてゐ乍ら、此文法を規定してゐる大勢力を無視してゐたことは、反省すべき所だ。実際において感動とも、囃し詞ともいふべき地位にあるもので、これを今すこし言ひかへて見る必要がある。
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あなにやし  よしゑやし
あをによし  やほによし
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などを省ると、これを我々の頭で、単純化して見ると、「あなに」「よしゑ」「あをに」「やほに」である。この場合などは、此古典的な語の性質上、其から其用例の習慣から、声楽上の約束を考慮に置かぬ訣にはいかない。さうして、之を分解して還元すると、
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あなに  よしゑ
あをに  やほに
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である。第一行と第二行とでは、大分部類の違ふ様だが、形式問題からは一つに言へる。仮りに「やし」・「よし」を囃し詞のやうに見ることも出来る。而もこの「やし」「よし」の間に長い歴史があり、其だけに又、用語例の上に展開と、誤解を包んだまゝの変化があるのは勿論だ。「あなにやし」「よしゑやし」では、時代に開きはあるが、用語例は古風を伝承してゐるものと見られる。「あをによし」も大体、「やほによし」の用語例からさのみ分化してゐるとも見られないが、其でも尚、「玉藻よし」「麻裳(?)よし」「ありねよし(?)」などのよし[#「よし」に傍点]と共通に、意義が新しい理会によつて、移らうとする部分の見える事は確かだ。我々は先輩以来「よし」や「やし」の性能を少し局限して考へ慣らされてゐる。だがまづ、かう言ふ例を考慮に入れる必要がある。
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おふをよし しび[#「しび」に傍線]つくあま(記)
たれやし  ひとも……(紀)
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大魚《オフヲ》(?)なる鮪或は、誰なる人(即誰人)と言ふ風に今の語に飜《ウツ》して言ふことが出来る。もつと簡単に、大魚鮪・誰人と言うて、尚よいところだ。同時に、「よし」「やし」がなくとも、意味の通じるものである。即、熟語過程を示す語に過ぎないのだ。
扨一例「よしゑやし」をとつて考へて見る。之を「よしゑ」と言つても、声音の上で関係の深い形に直して「よしや」と言つても、大体において、形式と内容上に違ひがない。或は「よし」と言つても同じことゝ謂はれる。さうして此等は、一々挙げるまでもなく、例証の豊富な語である。結局語その物ばかりに就いて言へば、語根よし[#「よし」に傍線]と言ふ形に復して、用ゐられる訣なのだ。
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はしけやし  (はしけよし〈紀〉)
はしきやし  (はしきよし〈万葉〉)
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かう言ふ例になると、大体において、「け」と言ふ音の過程を含んだ方が古くて、「き」と言ふ音に直つてゐる方が新しい意識を持つてゐるものと考へられる。此とても、古い語形と新しく調節せられたものとが並用せられる例である。つまり、「はしけ」或は「はしき」と謂つた連体感覚を含んだ語に、「やし」「よし」がついたので、語根に其がついた時代から見ると、稍新しいと見ねばならぬ。此とても、枕詞の一つとして考へられてゐるものだが、其かゝる所は、妹・君などから延長して、家・国・里などにもかゝり、更に幾句かを隔てゝもかゝる様になつた。其上、鍾愛・未練・執着の心持ちをこめて言ふ時の一種の独立語の様な用途をさへ開いて来た。併し乍ら其は、内容の上の問題で、形式から言ふと元来、「はしき……妹・君・家」など言ふ接続ぐあひのはつきり訣つてゐたものであつた。たとへば、「はしき妹」「はしき其[#「其」に傍線]君」とでも、言へるところである。尤、「其」と言ふ語は、便宜上挿入したゞけで、決して、「し」などに「其《ソノ》」の義があるとは考へてはゐないのだ。
かうして考へて来ると、我々の所謂連体形なるものは、存外文法的に有機的なものでなかつたに違ひない。単綴語における、接近した二つの語とおなじ関係に似たものがあつたらしいのである。にも繋らず、かうした明らかな、屈折以上の連結のあるものがある。
「石見のや……高角山」「みなとのや……芦が中なる」「淡海のや……鏡の山」に於いても、同様なことが言へる。此「や」は声楽上の気分には、内容があつても、論理的の意義はない。又更に、「伊加奈留夜人にいませか(仏足石歌)」「如何有哉《イカナルヤ》人の子ゆゑぞ(万葉巻十三)」「天なるや弟たなばた」の場合も、疑ひもなく、「や」は文法上の職能を示して居ない。所謂感動の「や」或は「棄てや[#「や」に傍線]」と称せられてゐるものは、一種の囃し詞と見られる理由もある程、詞の意味を持つてゐない様に思はれる。殊に、俳諧の切れ字として見る時は、明らかに、此辞によつて、意義が中断せられ、そこに一種の情調を湛へるものと思はれるのだが、此も唯、習慣の推移から来てゐるに過ぎないことが知れる。

        第一類
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○たかし[#「たかし」に傍線]るや……天[#「天」に二重傍線]のみかげ  あめし[#「あめし」に傍線]るや……日のみかげ
○あまとぶや……軽《カル》[#「軽《カル》」に二重傍線]路《ノミチ》……領巾片敷《ヒレカタシ》き……鳥
○あまてるや……日《ヒ》[#「日《ヒ》」に二重傍線]のけに(あまてる……月)
○おしてるや……なに[#「なに」に二重傍線]は(おしてる……なには)
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        第二類
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○をとめの寝《ナ》(鳴)すや板戸
○ゆふづくひ指也《サスヤ》河辺
○さをしかの布須也《フスヤ》くさむら
○さぬやまに宇都也斧音《ウツヤヲノト》
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        第三類
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○かしこきや(恐也み墓仕ふる。……可之古伎夜みことかゞふり。……惶八神の渡り)
○うれたきや(宇礼多伎也しこほとゝぎす。……慨哉しこほとゝぎす)
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大体この様に三部類に亘つた「や」の用法について、今一応、おなじことをくり返して見たいと思ふ。第一類は、万葉当時既に枕詞としての意識は持たれてゐたに違ひないが、尚単なる用言の連体形の様な感じがある。其について、「や」を附加することによつて、様式上の連体状態を中断し、而も内容において、連体性能に何の変化もなからしめてゐる。と同時に、音律感覚の推移から来る不足感を十分補はしめてゐる。さうしてかう言ふ自然の方法が、新しい連体職能を構成すると共に、枕詞として独立した格の感じを成立せしめようとしてゐるのだ。
第二類になると、句が修飾部の様になつてゐるので、「や」の職能は、更に発達し、文法的機能が漲つて来た様子が見えるのだ。
ところが第三類には、右に言つた用語例の外に、特殊なものゝ加つて来てゐることが見られる。
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A○やすみしゝ我《ワゴ》おほきみの 恐也《カシコキヤ》みはかつかふる山科の鏡の山に……(万葉巻二)
 ○可之故伎也天のみかどをかけつれば、哭《ネ》のみし泣かゆ。朝宵にして(同巻二十)
 ○可之古伎夜みことかゞふり、明日ゆりや、かえがいむたねを いむなしにして(同)
B○……海路に出でゝ、惶八神の渡りは、吹く風ものどには吹かず、立つ浪もおほには立たず、頻《シキ》波の立ち障《サ》ふ道を……(同巻十三)
 ○……海路に出でゝ、吹く風も母穂には吹かず、立つ浪ものどには立たず恐耶神の渡りの頻《シキ》浪のよする浜べに、高山をへだてに置きて……(同)
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
又、A○うれたきやしこほとゝぎす。今こそは、声の干蟹《ヒルカニ》、来鳴きとよまめ(同巻十)
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B○……こゝだくも我が守《モ》るものを。うれたきやしこほとゝぎす……追へど/\尚し来鳴きて、徒らに土に散らせば……(同巻八)
[#ここで字下げ終わり]
尠くとも、Aに属するものは、明らかに「かしこき……」・「うれたき……」と言ふ風に、熟語の形を採つてゐるものと見られる。其に対して、Bのものは、さうした単語を修飾するといふよりも、その効果が、他にも及んでゐる様に見える。即、「かしこきかも」・「うれたきかも」に近づかうとしてゐるのである。此事から更に飜つて見ると、「はしきやし」に関する数多の用例が、元は、熟語を作るものに過ぎなかつたのが、次第に、間隔を置いて対象語にかゝる様になり、更に文章全体に効果の及ぶやうになつた訣が見られるのである。
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a 伴之伎(?)与之 かくのみからに、慕ひ来し妹が心の、すべもすべなさ(万葉巻五)
b 波之寸八師 然る恋にもありしかも。君におくれて恋しき、思へば(同巻十二)
c ……里見れば、家もあれたり。波之異耶之 かくありけるか。みもろつくかせ山の際に咲く花の……(同巻六)
d 早敷哉 誰《タ》が障《サ》ふれかも、たまぼこの 道見忘れて、君が来まさぬ([#ここから割り注]はしきかも[#「はしきかも」に傍線]とも訓むべきかも知れぬ。[#ここで割り注終わり])
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[#地から1字上げ](同巻十一)
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e 級子(寸?)八師 吹かぬ風ゆゑ、たまくしげ ひらきてさねし我ぞ悔しき(同)
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此等の例は、すべて、連体に似た形を示して居ないばかりでなく、句を隔てゝも修飾してゐるとは言ひにくい様だ。aはまだしも、妹が心にかゝつてゐると言へば言へるが、其とて、全体に対しての叙述だと言ふ方が適切だ。bdに於いては、殊にさうした様子がよく見える。ceになると、完全に離れきつて了うて、唯はしきやし[#「はしきやし」に傍線]と言ふ語の習慣が、気分として用ゐられてゐる風に見える。
結局かう言ふことの起るのは、言語に対する人間の合理性によるのである。古い文法が固定し、次第に正確な理会を失うて来る。而も其形式を襲うて行くことは止めない。さうすると、唯、確かなものは、人々が受ける時代的情調である。これを分解しながら、新しい文法意識を組み立てゝ行く。さうすると、第一義とは非常に離れたものになる筈である。殊に、文学作品の上の用語として使はれた場合は、言語選択機能が働くだけに、一層甚しい。はしけやし(はしけよし・はしきやし・はしきよし)の場合などは、最遅くまで、其俤を留めた一例で、一方多くの「やし」は、殆決定的に、「よし」に変化して、単なる地名を想起せしめる、所謂枕詞の格の助辞の様な形に、統一せられて来てゐたのに、此だけは尚、ある理由の下に残つてゐて、古い気分を保留し乍ら用ゐられてゐた。我々はこゝに熟語を作る語の語尾が、其接すべき語から自由になつて、而も其文章なり句なりに、勢力を及し、表現性能を拡げて来る径路を明らかに認めることが出来たのだ。其が同時に、用言式に言へば、連体性のものを、終止形風に独立せしめることになつたのである。
        ○
「はしきやし」は、かうした一類の中、最特殊な用語例を示したものであるが、尚先にあげた、「あなにやし」「よしゑやし」を見ると、似た処を見出す。「よしゑやし」の「よしゑ」は、「よし」と「ゑ」とが分割出来るものに相違ない。形容詞・動詞の語尾につく所謂感動の語尾の「ゑ」である。今日の理会を以てすれば、「よ」と音韵の上で通じるものと見ることが出来る。だから、或は「よしゑやし」の場合、同じ価値を持つ「ゑ」と「や」とが、重畳せられたものではあるまいか。
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世の中は、古飛斯宜志恵夜《コヒシケシヱヤ》。かくしあらば、梅の花にもならましものを(万葉巻五)
[#ここで字下げ終わり]
この第二句を「恋しけ しゑや」「恋ひ繁しゑ や」「恋しけし ゑや」何れにとる事も出来る。だが、何れにしても、ゑ[#「ゑ」に傍点]・や[#「や」に傍点]の結合状態は、暗示せられてゐる。而も、更に見られるのは、文法の固定作用から、「しゑや」と言ふ一つの形式
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