少とも時間観念を含んだ類のあることに注意してよい。
同じ傾向のものと見られさうなのに、「もし」「ごとし」「けたし」がある。だけれども、私は此に就いては、特殊な考へ方を持つてゐる。
私は序説に於いて、文章法を説く事は、単語を説く事の延長と考へるのを正しとする、と言つておいた。其を、今になつて思ひ返す必要がある。此は、単なる偶言ではない。近隣諸民族の言語との比較研究から、単語序等の上に非常に考へさせられる事のあつた結果なのだ。古典的な文法と新興の文法とが並行してゐる間に、当然新興の方が正しいものと認められるだけの勢力を得て来なければならぬ筈だが、時としては、却つて古風なものが又再び栄える場合がある。同時に、並行状態が可なり長く続くのも、さうした理由から訣る。此と同じ理屈で、形容詞の活用が略《ほぼ》完備し、その色々な変態すら興つて来た時代に、尚古態を残してゐる事を考へなければ、時代文法の研究は無意味である。かう言ふ訣は、形容詞に於いても、いろんな形を派生してゐる時に、尚形容詞語尾の発生時代の姿が、その時代的に合理化せられ乍ら残つてゐる事もあるべき筈だ、と言ふ事を言ひたいのである。譬へば、

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