は、沢山ある。必しも「射られたるしゝ」「栽ゑたる水葱」と言ふまでもない。殊に、前者の如きは、古代歌謡の上の一つの成句として、屡《しばしば》流用せられたものと見ることが出来る。だが、後の例になると、殖槻・植竹の類の成語はあつても、其とは別に稍、今人の文法観念にそぐはぬ処がある。或は、地理に関した特殊の「に」の用法からして、「なる」と言ふ風に感じる人もあらうが、此はさう言ふ場合ではない。即、「春日の里に栽うる……」「いかほの沼に栽うる……」と言へば、多少の妥当性は欠けてゐても、我々には訣る。其とおなじ用法なのだ。更に言へば、時間観念を挿入すれば、もつと適切に感じられるところだ。さうした方法をとらないところに、偶《たまたま》、この語に限つて古い文法様式を保存してゐる痕が見えるのだ。謂はゞ、律文としての偶然な制約が、重つて来た為である。
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……山県に麻岐斯《マキシ》あだね搗き 染《ソ》め木が汁に染《シ》め衣を……(古事記上巻)
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などの場合にも、偶々さうした表現法が残つて見える。即「染め木が汁に染《シ》むる(或は染めたる)衣を」と解けば、気分的に納
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