だ。bdに於いては、殊にさうした様子がよく見える。ceになると、完全に離れきつて了うて、唯はしきやし[#「はしきやし」に傍線]と言ふ語の習慣が、気分として用ゐられてゐる風に見える。
結局かう言ふことの起るのは、言語に対する人間の合理性によるのである。古い文法が固定し、次第に正確な理会を失うて来る。而も其形式を襲うて行くことは止めない。さうすると、唯、確かなものは、人々が受ける時代的情調である。これを分解しながら、新しい文法意識を組み立てゝ行く。さうすると、第一義とは非常に離れたものになる筈である。殊に、文学作品の上の用語として使はれた場合は、言語選択機能が働くだけに、一層甚しい。はしけやし(はしけよし・はしきやし・はしきよし)の場合などは、最遅くまで、其俤を留めた一例で、一方多くの「やし」は、殆決定的に、「よし」に変化して、単なる地名を想起せしめる、所謂枕詞の格の助辞の様な形に、統一せられて来てゐたのに、此だけは尚、ある理由の下に残つてゐて、古い気分を保留し乍ら用ゐられてゐた。我々はこゝに熟語を作る語の語尾が、其接すべき語から自由になつて、而も其文章なり句なりに、勢力を及し、表現性能を
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