しき……
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[#地から1字上げ](万葉巻十三)
うらぐはし[#「うらぐはし」に傍線]は、「うるはし」の語原だとの説もあるが、ともかくも、美意識が動いてゐることは事実だが、稍自由である。「花ぐはし桜のめで」「香ぐはし花橘」など言ふ成語に挿まれた「くはし」も褒め詞の様に見えるが、尚考へる余地がある。「くちら」にかゝると見られる「いすくはし」などは、「勇細し」などで解くのは、如何にも固定した方法を思はせる。つまり「やし」「よし」などゝ用語例の似た、「はし」のあつた事が思はれるのである。其が合理化せられて、「細し」の一つの例に這入つてゐるが、かうした「し」は、外にもいろ/\あつたことを考へさせるのである。言換へれば、「やし」「よし」と一類の「はし」があつて、其が偶然、「くはし」と言つた形と結びついた事を思はせるのだ。かう言ふ過程を踏んで、古い組織が、新しい語の組み立て方に、引き直されて行つたものゝ多かつたことが思はれる。
唯此までの「し」で考へられることは、すべて、説明すれば、わり込んで来たものと思はれるものだつた。ところが、日本語の語根時代の俤を見せてゐる、と思はれる語には、語根の中の一部と言ふより、語根その物と見られるのがあることだ。
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おし  をし
もし  けたし
いまし  しまし
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神代巻以下まだ、神代の匂ひの失せない時代の記事を見ると、押・忍或は圧の字を上に据ゑた熟字に逢著することが多い。
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○天押帯日子命 押阪連 押媛 押木玉蘰
○忍熊王 天忍人 忍穂耳命
○天圧神
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此等の、沢山の「おし」の中、唯天圧神の外、殆例を見ない程、「おし」は「大《オホ》」或は「大きし」に通じるのである。此事は、宣長も古事記伝に論じてゐる。が、此に対照して考へると、「をし」の意義は稍明瞭である。古事記・日本紀の古訓などには、此「をし」を形容詞扱ひにして、「をしき」と言ふ活用を出してゐるが、此はうけ取れない。「愛」の義にとるべきではなくて、あるものは悉く「惜」の側に入るものだ。「をし(惜)」「をしむ」から還元して「をし」を「愛し」と感じることは、決して古義を溯源することにならない。たとへば、万葉古義以後、ほゞ通説の形をとつた「三山歌」の、「高山波雲根火雄男志等」の上の雄を目的格の「を」として、下の男を志につゞけて「をし」即「愛し」と訓む風は、意味をなさぬことになる。即語根としては意義はあるが、成語としては意義をなさない。「をし」は恐らく屈折を生じて「をし(惜)」といふ形容詞になつて、完全な意義を生じたと思はれる。だから、古代の「をし」の用語例は、必しも「惜」でなく、大切・大事など言ふ、
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○あたらしき君が老ゆらく惜毛《ヲシモ》(万葉巻十三)
○劔大刀 名の惜毛われはなし(同巻十二)
○君が名はあれど、吾が名之惜毛(同巻二)
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などの「をし」その他は、唯の「をし」で解せられるが、よく考へれば、大事と言ふことである。つまり、用言としては、さうした語原的の意義を一部分表して、後の用語例どほりでないものも出来たのだ。「をし」に珍重する意義を失はなかつたのだ。唯、語根の様な形で、他の体言や、用言と熟語を作つた時、特殊な内容を醸し出したものと思はれる。かうした「おし」「をし」が、更に分解して、「お」「を」になることは知れる。即我々の既成概念を以てすれば、大・小である。「お」「を」から直接に熟語を作つてゐる「おきな」「をぐな」「おみな」「をみな」「億計《オケ》王」「弘計《ヲケ》王」「大碓《オウス》」「小碓《ヲウス》」「おぢ」「をぢ」「おば」「をば」「大忌《オミ》」「小忌《ヲミ》」などがある。
私は尚、後々から例証を挙げて行くつもりだが、もう分解出来ぬ様に見える「おし」「をし」にも、やはり接合点があり、而も此等が作つた熟語の多くが失はれて了うたことを考へるのである。唯、「おし」の方は、あゝした形の熟語と認められてよいものとして残つたが、「をし」の方は、熟語用言として形を留めたと見ることが出来るのだ。唯此が今すこし形容詞屈折の含まれた時代だと、「をゆ」とか「をく」「をつ」「をす」とか言ふ形になるのだが、其だけの内容を「をし」が作つてゐない。「お[#「お」に傍点]ゆ(老)」と言ふ語(新国学第二・第一号)に対して、「わかゆ」と言ふ語の出来たのが遥か後の事と思はれるのである。
だから、「をしむ」或は形容詞「をし」などの場合は、「をし」の内容がある点まで拡張してゐるものと見ねばならない。さうして思ふべきは、後来の形容詞に専ら行はれる、殊に久活形容詞専門と思はれる「し」を外して語尾につく形は、こゝで考へる必要がある。
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