たとひ「おゆ」と謂つた形があるとしても、何か特殊な理由がなくてはならない訣である。今仮りに「をし」を以て言へば、私の話が、ひよつとすれば、「し」を単なる領格語尾の様な考へ方に誘うて来たかも知れぬが、最訣り易いこの術語を避けたのは、理由があつた。すべての格及び格の助辞と言ふものが、単に自然にさう傾いて来たゞけで、根本に溯ると、いづれの格にも共有の分子が多いのである。唯用法の問題である。の[#「の」に傍線]・が[#「が」に傍線]が主格或は領格、時としては、感動をさへ示す事がある如きである。
私は既に述べもし、此書き物以前に書いた体言語尾の考へについて言ひもした様に、熟語を作る、「ら」・「や」・「か」或は「な」・「た」の類の、語根につき、又其系統の語につく語尾は、体言感覚を作ることによつて、同時に、用言的屈折をしない語の為の、熟語格を作つたことを述べた。畢竟、かうした語尾は、体・用両方面の熟語を作る手引きとなつたことに疑ひはない。唯形容詞の場合、遅れて出来た「く」が、体言の場合のほか、用をなさなかつた事自身、用言的感覚を持たせる様になつた。其だけ、国語意識が変つて来たのである。
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○ます・ら・男(ます[#「ます」に傍線]はいよ[#「いよ」に傍線]と、同義語をなす健康の義の語根)
○たわ・や・め
○さゝ・ら・え+をとこ
○たわ・や・かひな
○ふはや・が・下
○なごや・が・下
  ×
○おだ(おだしく)・や・む
○すゝ・ろ・ぐ
○そび・や・ぐ(そびゆ・く?)
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かう言ふ風に、われ/\の時代文法の意識においてこそ、体言・用言の間に、非常な区別をおいて考へてゐるが、古くは語根の結合などにも、かうした無差別なものがあつたのだ。
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○いくばくも生けらじ命を(不生有命乎)(万葉巻十二)
○今宵のみ相見て、後は不相《アハジ》ものかも(同巻十)
○幾時《イクバク》も不生物乎《イケラジモノヲ》(同巻九)
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かう言ふ現象は、又「まし」にもある。語尾としての価値において、や[#「や」に傍線]・ら[#「ら」に傍線]・た[#「た」に傍線]・な[#「な」に傍線]と、まし[#「まし」に傍線]・まじ[#「まじ」に傍線]・じ[#「じ」に傍線]などの間に開きのある様に考へる方々も多からうが、結局は様式論から言へば一つである。「まし」においては、「もの」に接続するのが普通である。
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○竪薦も持ちて来ましもの(履中記)
○岩根しまきて死なましものを(万葉巻二)
○山の雫にならましものを(同巻二)
  ×
○国知らさまし島の宮はも(同巻二)
○うちなびく 春見ましゆは(同巻九)
○こゝもあらまし柘《ツミ》の枝はも(同巻三)
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かうした結合は、近代では、皆「き」と言ふ形を俟つて行ふものと思ふであらう。「じ」「まし」などでは其がない。又おなじ範疇に入りさうな「らし」なども、「らしき」と言ふ形はありながら、真の連体に用ゐられた痕跡はない。
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○うつそみも、つまをあらそふらしき(万葉巻一)
○うべしかも。蘇我の子らを、大君のつかはすらしき(推古紀)
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そのうへ、「らし」にも、
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○わが大君の、夕さればめし賜良之(神岡の……)、明け来ればとひ賜良志神岡の山の黄葉を。(万葉巻二)
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など言ふ幾分疑はしい使ひ方がある。謂はゞ連体形とも言ふべき「し」の形を持つた形容詞類似の助動詞で、多少とも時間観念を含んだ類のあることに注意してよい。
同じ傾向のものと見られさうなのに、「もし」「ごとし」「けたし」がある。だけれども、私は此に就いては、特殊な考へ方を持つてゐる。
私は序説に於いて、文章法を説く事は、単語を説く事の延長と考へるのを正しとする、と言つておいた。其を、今になつて思ひ返す必要がある。此は、単なる偶言ではない。近隣諸民族の言語との比較研究から、単語序等の上に非常に考へさせられる事のあつた結果なのだ。古典的な文法と新興の文法とが並行してゐる間に、当然新興の方が正しいものと認められるだけの勢力を得て来なければならぬ筈だが、時としては、却つて古風なものが又再び栄える場合がある。同時に、並行状態が可なり長く続くのも、さうした理由から訣る。此と同じ理屈で、形容詞の活用が略《ほぼ》完備し、その色々な変態すら興つて来た時代に、尚古態を残してゐる事を考へなければ、時代文法の研究は無意味である。かう言ふ訣は、形容詞に於いても、いろんな形を派生してゐる時に、尚形容詞語尾の発生時代の姿が、その時代的に合理化せられ乍ら残つてゐる事もあるべき筈だ、と言ふ事を言ひたいのである。譬へば、

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