]わがゐねし[#「し」に傍線]妹は忘れじ……(記。紀、づく……忘らじ)
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此等の例では、「に……し……」と言ふ形式も具へてゐるし、「し」の挿入せられた形跡が、まだ伺はれる。
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……わが哭くつまこそこそは、易く膚ふれ(記紀)
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許存許曾を、許布許曾の誤りだとしてゐるが、日本紀も去※[#「缶+墫のつくり」、第3水準1−90−25]去曾となつてゐるのだから、「こそこそ」でよい。此が、下に「ふれ」(四段形)と第五変化で結んだものと見れば、其までだが、尚考へて見る必要がある。「こそ」の係結の完成する前の形で、「わが哭くつま。昨夜《コソ》こそは、易く膚触れ 妻」と言つた形らしく思はれる。つまり、膚触れし[#「し」に傍点]妻と言ふ義である。若し、此が単に「膚触れし」と言ふだけに止るのでも、「し」と言ふ過程の予期せられてゐることが見える。
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……まさしに[#「まさしに」に傍点]知りて、我が二人寝し(万葉巻二)
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やはり、同じ旧事を説く歌だが、前の歌の様に言ふなら、「わが二人いね(又は、ゐね)」でもよい処だ。恐らく此場合は、「我が二人寝し我が」といふ形だらう。「易く膚ふれ」と「わがゐねし」とを並べて考へれば、「し」の出て来る気分が知れると思ふ。さうして見ると、榛の木の歌も、「猪のうだき畏みわが逃げ登りし猪のうだき」と解すべきで、「ありをのうへの榛の木の枝」は、所謂囃し詞に属すべきものかも知れぬ。先に出た倭建命の歌と、其事情の似たものを、二つ連ねて見ると、
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をとめの床のべに[#「に」に傍線]、わが置きし[#「し」に傍線]劔の大刀。その大刀はや。尾張にたゞに向へる尾津の崎なる一つ松。あせを。……
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即、榛の木の歌と、様式上に非常に近似性を持つてゐることが知れる。
過去表現に関しては、尚説かねばならぬものが多いが、今は其形容詞語尾と、発生径路を分化する以前を説くに止めねばならぬ。何にしても、「し」が時間意識を出して来る過程には、詠歎と、回想とを加へて来なければならなかつた。さうして更に、形容詞語尾と、明らかな差別を出すためには、熟語を構成する事から、解放せられねばならなかつた。併し一方、形容詞も亦、外見から言へば、独立した形を作らうとした様に見える。だが結局、此方にはやはり、最初の姿が残つてゐるのである。
○
考へ方によつては、過去の「し」の起原は、一種の囃し詞の様にも見える。又、一時的には「其《シ》」のわり込みと見ても済む。だが、囃しと見るのは、其後代的気分から出るものだし、「其《シ》」と見るのも、或は却て順序を顛倒して、「し」が固定して、「其《シ》」の感覚を起す様になつたのかも知れない。要するに言うてさし支へのないのは、一種の連体法を作る語尾だと言ふ事である。さうして其「し」は、同時に形容詞語尾をなしてゐる「し」とおなじものだ、と言ふことの推定に近づいて来る。
「やすみし+の」「あそばし+の」「いよしたゝし+の」が、「やすみしゝ」「あそばしゝ」「いよしたゝしゝ」で現されたものとすれば、万葉巻二日並知皇子尊舎人等歌の三つまである御立為之[#「御立為之」に傍線]の句は、「みたゝしの」と訓まずとも、「みたゝしゝ」と言ふ旧訓のまゝでもよいかも知れぬ。意義は同じ、古風だからだ。又、古事記の古訓に、無制限と見えるまで、宣長翁の訓まれた動詞に敬語「み」をつける癖(三矢先生改訓)「み……し」とある部分だけは、見免すことが出来ると言へるかも知れない。又、古風だけに、「やすみしゝ」以下の例と同じく訓むのが本道らしくも思はれる。但其場合も、決して翁の考へに含まれてゐるらしい「み佩かしゝ」などの「し」を過去とゝることは、何処までもいけない。実感は実感でも、近代の文法意識と古代のものとは違はなければならぬ筈だ。「し」から過去を感じ馴れてゐる我々が、「やすみしゝ」「あそばしゝ」「いよしたゝしゝ」を過去と感じ、又「栽ゑしはじかみ」「まきしあだね」に、時間的に所置しようとする心が動いても、其は古代の文法からは、没交渉なものと謂はねばならぬ。さう言ふ例を今一つ、「名細之」によつて説いて見よう。この例が若しも的確でなくとも、さうした類型は、外に沢山ある訣なのだ、と言ふことを言ひ添へる。
我々は、「くはし」と言ふ讃美の語を知つてゐるから、古人が「くはし」を細し(美)と感じた事に不審は抱かなくなつてゐるが、なほ吟味すると、偶「くはし」と言ふ語のあつた為に、其をすべて「美」の範疇にいれて考へたとも言へるではないか。
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……朝日なす目細毛、夕日なす浦細毛。春山のしなひさかえて、秋山の色なつか
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