の常世の国から、年に一度或は数度此国に来る神である。常世神が来る時は、其前提として、祓へをする。後に、陰陽道の様式が這入つてから、祓への前提として、神が現れる様にもなつた。が、常世神は、海の彼方から来るのがほんとうで、此信仰が変化して、山から来る神、空から来る神と言ふ風に、形も変つて行つた。此処に、高天原から降りる神の観念が形づくられて来たのである。今も民間では、神は山の上から来ると考へてゐる処が多い。此等の神は、実は其性質が鬼に近づいて来てゐるのである。
二 祭りに出るおに[#「おに」に傍線]
春の祭りには、一年中の農作を祝福するのが、普通であつた。其には、其年の農作の豊けさを、仮りに眼前に髣髴させようとした。かうした春の農作物祝福の祭りの系統を、はなまつり[#「はなまつり」に傍線]と言ふ。新・旧正月に通じて、今年の農作はかくの如くある様に、と具体的に示す。此春の祭りには、おに[#「おに」に傍線]が出て来るのだ。
おに[#「おに」に傍線]は、実に訣らぬ怪物である。出雲の杵築の春祭りにも「番内《バンナイ》」といふおに[#「おに」に傍線]が出て来る。此は、追儺と一緒になつて了うてゐる。歩射《ホシヤ》の神事には、節分の日昏れ、或は大晦日の日昏れに、馬場などに的を造つて、射ることがある。此を鬼矢来の式と称するが、此は逆で、神の来る式におにやらひ[#「おにやらひ」に傍線]の式が混入し、村人のおに[#「おに」に傍線]の信仰が変化して結びつき、こんな矛盾した形が出来たのであらう。
社々で行はれてゐる神楽には、鬼が現れてする問答がある。鬼が言ひまかされて逃げて行く処が、神楽の大事な部分である。此考へは、追儺の式と同じであるが、これにも矛盾が沢山ある。歳神と言ふのは、毎年春の初めに、空か山の上かゝら来る神で、年の暮れに村人が歳神迎へに行く。其時には、山の中の神の宿る木を見つけて、其木に神の魂を載せて帰る。かうした意味で、門松の行事の行はれてゐる地方が、沢山ある。此時神は、門松に唯一人で載つて来るのではなくて、大勢眷属を率ゐて来るのである。かうした神を祀る処は歳棚で、歳棚の供物には、鏡餅・粢《シトギ》・握り飯等があるが、皆魂の象徴であつたのだ。其数は、平年には十二、閏年には十三である。此は、神の眷属は大勢あるが、一个月に一人づゝ来るものと見て、此習慣が出来たのであらう。
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング