、こんな略形に変じ来つたのであるが、古いものを繙けば、天子の沐浴を、ゆかはあみ[#「ゆかはあみ」に傍線](湯川浴)と訓じてゐるのが目にとまる。つまり斎川《ユカハ》の水をゆみづ[#「ゆみづ」に傍線]と云ひ、更に略して「ゆ」といふ形を生んだので、今いふやうな、温湯を湯と称するやうになつたのは、遥か後代の事である。だから産湯には、冷水を用ゐた時代のあつた事を含めて考へなければ当らない事になる。
さて、ゆ[#「ゆ」に傍線]即、ゆかはみづ[#「ゆかはみづ」に傍線]は、何の為に用ゐるのかといふに、此は申すまでもなく、みそぎ[#「みそぎ」に傍線]の為である。今日までの神道では、禊祓は凶事祓へを本とするやうに説いてゐるが、此は反対で、吉事祓へが原形である。来るべき吉事をまちのぞむ為の潔斎であるのが、禊祓の本義であつた。
禊祓の話は、此処にはあづかる事として、貴人誕生の産湯は、誰も考へるやうに禊ぎに過ぎないが併し、その水は単なる禊ぎの為の水ではなく、或時期を限り、ある土地から、此土により来るものと看做された。即、其水の来る本の国は、常世国であり、時は初春、及び臨時の慶事の直前であつた。海岸・川・井、しか
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