丹比氏が養育し奉つたから、若皇子の御名を多遅比と称へたのであらう。しかしながら、後世には事実をよそにして、産湯の井の中に多遅《タヂヒ》の花が散り込むと云ふ、此伝説の方が有名になつて了うてゐる。三代実録の、宣化天皇の曾孫たぢひこの王[#「たぢひこの王」に傍線]のことを記したものにも、多遅《タヂヒ》の花が散つて、湯釜の中にまひ込んだとある。
さういふやうな貴人の、若い時代をとりみる[#「とりみる」に傍線]家を、にぶ[#「にぶ」に傍線](壬生)又は、みぶ[#「みぶ」に傍線]とも云ふ。語原にさかのぼると丹生《ニフ》の水神の信仰と結びついてゐるのである。
近代の語で云ふとりおや[#「とりおや」に傍線]・とりこ[#「とりこ」に傍線]と云ふ関係が、皇子及び臣下の間に結ばれてゐた訣である。みぶ[#「みぶ」に傍線]と云ふ事は、奈良朝には既に、乳母の出た家を斥《サ》すことになつてゐたらしい。其証左には、壬生部を現すのに、乳部と書いてゐる。古くは、そこに職掌の分化があつて、第一に大湯坐《オホユヱ》、それから若湯坐《ワカユヱ》、飯嚼《イヒガミ》・乳母《チオモ》等をかぞへてゐる。恐らく此他にも、懐守《ダキモリ》
前へ 次へ
全11ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング