丹比氏が養育し奉つたから、若皇子の御名を多遅比と称へたのであらう。しかしながら、後世には事実をよそにして、産湯の井の中に多遅《タヂヒ》の花が散り込むと云ふ、此伝説の方が有名になつて了うてゐる。三代実録の、宣化天皇の曾孫たぢひこの王[#「たぢひこの王」に傍線]のことを記したものにも、多遅《タヂヒ》の花が散つて、湯釜の中にまひ込んだとある。
さういふやうな貴人の、若い時代をとりみる[#「とりみる」に傍線]家を、にぶ[#「にぶ」に傍線](壬生)又は、みぶ[#「みぶ」に傍線]とも云ふ。語原にさかのぼると丹生《ニフ》の水神の信仰と結びついてゐるのである。
近代の語で云ふとりおや[#「とりおや」に傍線]・とりこ[#「とりこ」に傍線]と云ふ関係が、皇子及び臣下の間に結ばれてゐた訣である。みぶ[#「みぶ」に傍線]と云ふ事は、奈良朝には既に、乳母の出た家を斥《サ》すことになつてゐたらしい。其証左には、壬生部を現すのに、乳部と書いてゐる。古くは、そこに職掌の分化があつて、第一に大湯坐《オホユヱ》、それから若湯坐《ワカユヱ》、飯嚼《イヒガミ》・乳母《チオモ》等をかぞへてゐる。恐らく此他にも、懐守《ダキモリ》・負守《オヒモリ》等の職分もあつたのであらう。此だけを総括してみぶ[#「みぶ」に傍線]の職掌としてゐるらしいが、肝腎の為事は、大湯坐・若湯坐にあるやうだ。ゑ[#「ゑ」に傍線]といふ語は、ものを据ゑると云ふ語であるから、要は湯の中に、入れすゑ取扱ふといふことにある。後世のとりあげ[#「とりあげ」に傍線]、即、助産する事になるのである。だから、今でも地方によると、とりあげ[#「とりあげ」に傍線]婆さんの為事が、どうかすれば考へられる様な職でなくて、ある女にとりあげられた子供は、幾歳になつても盆・正月には、欠かさずに其産婆の許に挨拶に出かける風習がある。即、此はとりおや[#「とりおや」に傍線]ととりこ[#「とりこ」に傍線]との関係であつたことが知れる。
二
かうして育てあげられた貴人の為に、とりおや[#「とりおや」に傍線]を中心とした一つ或は数箇の村が出来て、其貴人の私有財産となつた。即、御名代部《ミナシロベ》の起原であり、壬生部と称せられた。此が後世に伝はつて、更に御封《ミブ》・荘園とも変じてゆくのである。そして、反正天皇の際に於ける壬生部の統領は、丹比《タヂヒ》[#(ノ)]宿禰と云ふ家であつた。だから、其家の宰領する村を、丹比壬生部と称へてゐる。瑞歯別の伝説は、全く、此丹比壬生部の伝承した叙事詩から出たものに他ならぬのである。
さて代々の多くの皇子たちの壬生及び壬生部は、皆別々の家を選んで、其皇子の私有になる村々を、宰領させられた訣であつた。みぶ[#「みぶ」に傍線]の本体なる産婆・乳母のみぶ[#「みぶ」に傍線]の――選抜された家々の直系の女子である――出た其家長は、其際水辺に立つて、寿詞を奏上すると云ふのが、きまつた形式と考へられる。此が、史書を読む読書、鳴弦の式に変つて行つたのだ。新撰姓氏録を見ると、反正天皇のみあれ[#「みあれ」に傍線]に与つた丹比宿禰の伝へを記してあるが、其によると、瑞歯別の誕生の時、丹比部の祖先|色鳴《シコメ》宿禰が天神寿詞《アマツカミノヨゴト》を奏したとある。そして此寿詞を奏上する間に、みぶ[#「みぶ」に傍線]に選ばれた女子が水に潜つて、若皇子をとりあげるのである。
産湯と云つて来たが、古代は水をもつて湯とも称してゐる。誕生の際、正確に湯にとりあげたのは何時の頃よりか知られてゐない。一体、湯は斎川水《ユカハミヅ》と云ふ語の慣用が、こんな略形に変じ来つたのであるが、古いものを繙けば、天子の沐浴を、ゆかはあみ[#「ゆかはあみ」に傍線](湯川浴)と訓じてゐるのが目にとまる。つまり斎川《ユカハ》の水をゆみづ[#「ゆみづ」に傍線]と云ひ、更に略して「ゆ」といふ形を生んだので、今いふやうな、温湯を湯と称するやうになつたのは、遥か後代の事である。だから産湯には、冷水を用ゐた時代のあつた事を含めて考へなければ当らない事になる。
さて、ゆ[#「ゆ」に傍線]即、ゆかはみづ[#「ゆかはみづ」に傍線]は、何の為に用ゐるのかといふに、此は申すまでもなく、みそぎ[#「みそぎ」に傍線]の為である。今日までの神道では、禊祓は凶事祓へを本とするやうに説いてゐるが、此は反対で、吉事祓へが原形である。来るべき吉事をまちのぞむ為の潔斎であるのが、禊祓の本義であつた。
禊祓の話は、此処にはあづかる事として、貴人誕生の産湯は、誰も考へるやうに禊ぎに過ぎないが併し、その水は単なる禊ぎの為の水ではなく、或時期を限り、ある土地から、此土により来るものと看做された。即、其水の来る本の国は、常世国であり、時は初春、及び臨時の慶事の直前であつた。海岸・川・井、しか
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