はれる。当時にも、はいから[#「はいから」に傍線]嗜《ズ》きの民衆は多かつた。此をまねない筈はないのである。

     九 少女のものいみ[#「ものいみ」に傍線]

勿論日本にも、三月三日に、女が家を離れてものいみ[#「ものいみ」に傍線]の生活をする信仰が、古くからあつた。五月五日は、男が家を出はらつて、女ばかりが家に居た。名古屋附近では、現在でも、五月四日の夜から五日へかけてを、女天下と言ふ。近松の「女殺油地獄」中巻に「五月五日の一夜さを、女の家と言ふぞかし」とあるのも、其を言うたのである。とにかく、三月三日は女が野山に籠つて、女ばかりの生活をした。女が神事に仕へる資格を作る為のものいみ[#「ものいみ」に傍線]で、此ものいみ[#「ものいみ」に傍線]が了ると、女は聖なる資格を得て、戻つて来る。此資格は、祭りの終るまで続く。即、村共有の巫女となつて、宗教上の実権を握るのである。
女のものいみ[#「ものいみ」に傍線]は、此外にも幾度かある。長期のものいみ[#「ものいみ」に傍線]は、さをとめ[#「さをとめ」に傍線]の資格を得る為の其である。其外には、卯月八日にもある。七夕にもあつて、此が後に、盂蘭盆に続いて、盆がま[#「がま」に傍線]と称するものになつた。少女達が、弁当を持つて集る遊楽にまで、変転をしたのであるが、其でも、此が別屋に於けるものいみ[#「ものいみ」に傍線]の遺風である事は、盆がま[#「がま」に傍線]の名称からも、容易に想像出来る。次は八月の一日で、江戸時代になつても、吉原の遊女は、八朔《ハツサク》の衣《コロモ》がへと言うて、白衣《シロムク》を着た。古いものいみ[#「ものいみ」に傍線]生活の遺風が、こんな形となつて残つたのである。此外には、九月九日もさうであつた。
要するに、此等のものいみ[#「ものいみ」に傍線]は、何れも少女が、神を接待する為の、聖なる資格を得る為で、三月の雛祭りは、此接待する神の形代《カタシロ》を姑く家に止める風習から出た、と見るのが一等近い様だ。さうして、其前提としての野山に籠《コモ》るものいみ[#「ものいみ」に傍線]生活の方は、げんげ[#「げんげ」に傍線]・よめな[#「よめな」に傍線]などを摘んで遊ぶ、野遊びとなつたのである。
相州|敦木《アツキ》――今の厚木――では、三月三日に、少女達が古い雛を河原に持ち出して、白酒で離杯を汲みかは
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