のしろごろも[#「みのしろごろも」に傍線]と言うたは、後の事である。みのしろかみ[#「みのしろかみ」に傍線]になり、文章でみのしろごろも[#「みのしろごろも」に傍線]と言ふ様になつた。
我々の国では、殆最初の伝説から、藁人形と凶悪との関係は言はれて居る。藁人形と怨霊との関係は、近代になつて、突如として考へ出されたものではない。
近世の例で言ふと、宇和島騒動のやんべ[#「やんべ」に傍線]清兵衛は、田植ゑの時に、蚊帳の中で殺されて居る。此話には、手足の自由にならない事が、印象せられてゐる。又佐倉宗吾郎も、死んで稲虫になつたと言はれてゐる。其事から出発して、宗吾の霊が祀られるに至る、史実らしいものが考へ出されもしてゐるのだ。
更に不思議な事は、壱岐の島に於ては、熊治右衛門以下三人の兇徒が、刑死して居るが、其は明治少し前の事で、伝説でも何でもない、明らかな事実であるにも拘らず、此にも、稲虫になつた話がついて居る。
とにかく、農村の生活に於ては、稲虫――其他、田の凶害――と怨念、或は刑罰とは、常に一続きに、聯想せられたのである。其で、佐倉宗吾郎の如き義人を考へると同時に、熊治右衛門の如き悪徒すらも、死んで稲虫になる事が出来た。此から見ても、稲虫の話には、どうしても、送り人形の草人形《クサヒトガタ》の信仰が、結びついて居るものと見なければならない。
八 雛祭りと淡島伝説
黙阿弥の脚本「松竹梅湯島掛額《シヨウチクバイユシマノカケガク》」駒込吉祥寺の場面で、三月三日に、お七が内裏雛《ダイリビナ》を羨んで、男は住吉《スミヨシ》様、女は淡島《アハシマ》様と言ふ条《クダ》りがある。どうして淡島様が、雛祭りに結びついたか。三月三日に、村々の女達が、淡島堂に参詣する風習が、所によつては、極最近までもあつた。私も、先年三浦半島を旅行した時、葉山から三崎の方へ行く途中、深谷と言ふ所に淡島堂があつて、村の女達の、大勢参詣するのを見た事がある。此|由緒《ユカリ》については、次のやうに言はれて居る。
昔、住吉明神の后《キサキ》にあはしま[#「あはしま」に傍線]と言ふ方があつた。其方が、白血・長血の病気におなりになつたので、明神がお嫌ひになり、住吉の門の片扉にのせて、海に流された。其板船が、紀州|加太《カタ》の淡島に漂ひついた。其を、里人の祀つたのが、加太の淡島明神だと言ふのである。あはし
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