大夫と謂へば、篤胤が書いた「稲生物怪録」を触れて通つた位にしか読んで居なんだ私である。
それ、あのよく貸し本屋が持つて来たぢやありませんか。――写本でさ――、稲亭随筆だの、稲亭何だとか言ふし、御存じないんですか、――あきれた、と言ふ風で、私の無知を確めて、何だか却て恥かしさうな顔をしながら、さうかなあと言ふ風な表情を見せられた。
物足らぬ話相手だと思はれたことだらうし、土台自分は無学な戯作者を以て任じて居られた人だから、一目おいて来た学者といふものが、自分の知つて/\知りぬいてゐるありふれた雑書を知らぬとなると、今までの謙遜な自覚が動揺せずには居られなんだらう。でも、人に恥をかゝせぬお人の事だから、あきれた表情を持ち続けることなく、新しい感興を以て話の方にみを入れて[#「みを入れて」に傍点]行かれた。
泉さんは、柳田先生などゝ同年代の若い時代を過ぎて来られたのだから、先生同様、私より一まはり以上は上《ウヘ》の筈である。さすれば、あの日清戦争時期は、貸し本などを耽読せられた時代で、さう言へばその頃なら、まだ私装本を頭より高く、恰も見越し入道を背負うたやうな恰好で、雑書読みの居る家《ウチ》
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