花の話
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)迯《に》げ水

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)普通|舞屋《マヒヤ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)黒※[#「巾+責」、第3水準1−84−11]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)柘《ツミ》[#(ノ)]枝《エ》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)どん/\と
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     一

茲には主として、神事に使はれた花の事を概括して、話して見たいと思ふ。
平安朝中頃の歌の主題になつて居た歌枕の中に、特に、非常な興味を持たれたものは、東国の歌枕である。
東国のものは、異国趣味を附帯して、特別に歌人等の歓迎を受けた。其が未だに吾々の間に勢力を持つて居る。譬へば関東には「迯《に》げ水」の実在が信ぜられて居た。それは、先へ行けば行く程、水が逃げて行くと考へられて居たものである。又「入間《イルマ》言葉」なども、大分後になつて、歌枕に這入つて来た。其は、人の言葉を何でも反対に言ふと信ぜられて居るものである。「ほりかねの井」など言ふものも、後になつて出来た。下野には「室の八島」がある。此類のものは他にも沢山ある。旅行者が、旅路の見聞談を敷衍して話した為に、都の人々は非常な興味を持つて居た。「常陸帯」の由来も其一つである。総じて東国のものは、奥州に跨つて、異国趣味を唆る事が強かつた。
そんな事の中に、錦木《ニシキギ》を門に樹てることがある。里の男が、懸想した女の家の門へ錦木《ニシキギ》を切つて来て樹てるのである。美しい女の家の門には、村の若者によつて、沢山の錦木が樹てられる。どれが誰のか、判断はどうしてつけるのか訣らぬが、女が其中から、自分の気に入つた男の束を取り入れる。其は、女が承諾した事を示す。此は、平安朝の末頃、陸奥の結婚にはかう言ふ話があつた、と言ふ諸国噺の一つとして、語り伝へられて、歌枕になつたのであるが、よく考へて見ると、さう言ふ事でないのかも知れぬ。
此は恐らく、正月の門松の御竈木《ミカマギ》と同じ物で、他人の家の外に、知らぬ間に、木を樹てに来るものではなかつたらうか。其樹を何故、錦木と言ふのであらうか。錦木と言ふ木なのか、或は其樹てた木を錦木と言うたのか、問題であるが、それは結婚の為ではなく、私は外から来るある人が、土産として、樹てゝ行つたことの、一つの説明なのだらうと思ふ。御竈木の古い形を見たのは、三・信境の山間、遠州の山奥辺の風俗であつた。三河の奥で、初春行はれる祭りに「花祭り」といふのがある。昔は、前年の霜月に行はれた。即、春のとり越し祭りである。此祭りの意味から言ふと、来年の村の生活は此とほりだ、と言ふことを、山人が見せてくれるのであつた。其時、山人の持つて来る山苞には色々あつた。更に、其が種々に分れて来た。鬼木とも言ひ、にう木[#「にう木」に傍線](丹生木《ニフギ》か)とも言ふ木の外に、雑多なものを持つて来る。
花祭りと、にう木[#「にう木」に傍線]が門に樹てられる事とは、別の時ではあるが、今は正月の初めと小正月前後に当るから、近づいて来たのである。中世では、にう木[#「にう木」に傍線]の樹てられる初春と、花祭りの行はれる霜月とは、間があいて居たけれども、もつと古い時代には、にう木[#「にう木」に傍線]の樹てられる時と、花祭りの時とは同じ時で、其が次第に岐れて来たのであらうと推定出来る。
花祭りの行事は「花育て」といふ行事が演芸種目の中心になつてゐる。竹を割いて、先を幾つにも分けて、其先へ花をつけた花の杖をついて、花祭りを行ふ場所、其は普通|舞屋《マヒヤ》と言ふ家の土間、即まひと[#「まひと」に傍線]を廻るのである。其中央に、大きな釜があつて、湯がたぎつて居る。昂奮して来ると、見物人までも参加して、其周囲をまはる。其人々の中心に、山伏姿のみようど[#「みようど」に傍線]と云ふ者が居つて、花の荘厳(唱言、或は処によつて、唱文とも言うて居る)と言ふ文句を唱へる。此花の唱言は、場合によつては、非常に戯曲的になつて居る事もある。かうした儀式は、必しも花祭りでなくとも、行はれて居た様に思はれる事であるが、何故、かうした行事をしたかは、大きな問題になる。尠くとも、半解の問題である。
私の考へを述べると、みようど[#「みようど」に傍線]は即、私の言ふ山人である。其山人は、山から多くの眷属を連れて、群行《グンギヤウ》して来る。其時山人は杖をついて来て、去る時には、其山人のしるし[#「しるし」に傍線]なる杖を、地面に突き挿して帰る。其杖から根が生えると、此祭りの唱言が効果を奏して、村の農業生活が幸福になる。根が生えない時は効力がない事になると信じた。其杖は、普通根のあるものであるが、場合によつては、根のないものもある。桑の木などは、根がなくとも著き易い木で、祝詞にも「生《イカ》し八桑枝《ヤクハエ》の如く」などゝ書かれて居て、枝の繁る木である。ともかく、山人は根の附いて居る棒、或は根のない棒を持つて来て、其を挿して行くのである。
昔の人は、杖を倒に突いて、梢の方を下にして居る。此杖を叉杖《マタブリ》と言ふ。昔は乞食房主が此を持つて歩いた。此は西洋にも、何処にでもある形で、物を探つて行く為のものである。杖には根がある。後世の人には、杖を立てたのに、芽の出る事は非常に、不思議に感ぜられるけれども、此は、杖に対する観念が変化して居るからである。高僧たちが突きさして行つた一夜竹・一夜松の如きも、此が伝説化したものに過ぎない。さうして、弓矢でも根が生える様に、変つて考へられて行つたのだ。
此等は杖の信仰である。祝福の効果があるか、どうかの試みである。此効果の現れることを「ほ」が現れるとも「うら」が現れるとも言ふ。此杖は即「花育て」の花杖と同じものである。杖の先に花の咲く事がある。三河の花祭りに、杖の先に稲の穂を附けて来たといふが、此では、意味が訣らなくなる。花杖は、今年の稲の花を祝福する為のものである。花祭りの花は、稲の花の象徴であるのだ。

     二

花と言ふ語《ことば》は、簡単に言ふと、ほ[#「ほ」に傍線]・うら[#「うら」に傍線]と意の近いもので、前兆・先触れと言ふ位の意味になるらしい。ほすゝき[#「ほすゝき」に傍線]・はなすゝき[#「はなすゝき」に傍線]が一つ物であるなどを考へ併せればわかる。物の先触れと言うてもよかつたのである。
雪は豊年の貢、と言うた。雪は、土地の精霊が、豊年を村の貢として見せる、即、予め豊年を知らせる為に降らせるのだと考へた。雪は米の花の前兆である。雪を稲の花と見て居る。ほんとうは、山にかゝつて居る雪を主とするのであるが、後には、地上の雪も山の雪と同様に見るやうになつた。稲の花の一種の象徴なのである。処が、かうした意味の花は沢山ある。譬へば、冬の祭り、殊に宮廷の冬祭りなる鎮魂祭に持ち出す桙は、柊で作つたものである。日本紀・続日本紀を見ると、八尋桙根と言ふのが国々から奉られて居る。此は恐らく、棒ではなくて、柊を立ち樹のまゝ抜いて来たものであらう。それで、根の字が着いて居るのであらう。此で以て地面をどん/\と、胴突きして廻つたのである。「柊」の字も「椿」の字も国字である。
榎・楸の如き字も、何故問題になるのか。其は村々国々によつて特殊な祭りに、手草《タグサ》として使用するものであつたから、木偏に其季を附けて表したのであらう。勿論、柊の花は冬咲くものであるが、其花の咲き方で占つたり、或は柊の桙で突いて、占つたものと思はれる。春になると雪が、今言うたやうに、花になる。其外、卯月に卯の花、五月に皐月《サツキ》・躑躅《ツヽジ》などがある。
花祭りの花は稲の花の象徴であるが、其中心になる人は、今では修験道の後々の、前述のみようど[#「みようど」に傍線]が勤める。其前の形は、山伏の前型なる山人が勤めた。其つく杖に、今年の農業に関する先触れが現れるので、此杖を以て、土地を突き廻つた。村人に此象徴を見せて廻ると同時に、土地の精霊に、かう言ふ風にせよ、と約束させるのである。更に溯れば、土地の精霊が自ら示したものである。今年も、此杖に附いて居るとほり、稲の花が咲くだらうと言ふ徴《シルシ》である。
三月の木の花は桜が代表して居る。屋敷内に桜を植ゑて、其を家桜と言つた。屋敷内に植ゑる木は、特別な意味があるのである。桜の木も元は、屋敷内に入れなかつた。其は、山人の所有物だからと言ふ意味である。だから、昔の桜は、山の桜のみであつた。遠くから桜の花を眺めて、その花で稲の実りを占つた。花が早く散つたら大変である。
考へて見ると、奈良朝の歌は、桜の花を賞めて居ない。鑑賞用ではなく、寧、実用的のもの、即、占ひの為に植ゑたのであつた。万葉集を見ると、はいから[#「はいから」に傍線]連衆は梅の花を賞めてゐるが、桜の花は賞めて居ない。昔は、花は鑑賞用のものではなく、占ひの為のものであつたのだ。奈良朝時代に、花を鑑賞する態度は、支那の詩文から教へられたのである。
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打ち靡《ナビ》き春さり来《ク》らし。山の際《マ》の遠き木末《コヌレ》の咲き行く 見れば(万葉巻十)
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の如き歌もあるが、此は花を讃めた歌ではない。名高い藤原広嗣の歌
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此花の一弁《ヒトヨ》の中《ウチ》に、百種《モヽクサ》の言《コト》ぞ籠れる。おほろかにすな(万葉巻八)
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は女に与へたものである。此は桜の枝につけて遣つたものであらう。
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此花の一弁《ヒトヨ》の中《ウチ》は、百種の言《コト》保《モ》ちかねて、折らえけらずや(万葉巻八)
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此は返歌である。此二つの歌を見ても、花が一種の暗示の効果を持つて詠まれて居ることが訣る。こゝに意味があると思ふ。桜の花に絡んだ習慣がなかつたとしたら、此歌は出来なかつたはずである。其歌に暗示が含まれたのは、桜の花が暗示の意味を有して居たからである。
此意味を考へると、桜は暗示の為に重んぜられた。一年の生産の前触れとして重んぜられたのである。花が散ると、前兆が悪いものとして、桜の花でも早く散つてくれるのを迷惑とした。其心持ちが、段々変化して行つて、桜の花が散らない事を欲する努力になつて行くのである。桜の花の散るのが惜しまれたのは其為である。
平安朝になつて文学態度が現れて来ると、花が美しいから、散るのを惜しむ事になつて来る。けれども、実は、かう云ふ処に、其基礎があつたのである。かうした意味で、花の散るのを惜しむといふ昔の習慣は吾々の文学の上には見られなくなつて来たが、民間には依然として伝はつて居る。
文学の上の例として、謡曲の泰山府君を見ると、桜の命乞ひの話がある。泰山府君は仏教の閻魔と同様なもので、唐から叡山の麓に将来した赤山明神である。此神に願を懸けて、桜の命乞ひをした桜町中納言(信西の子)の話がある。まことに風流な話であるが、実生活には何らの意味もない。だが、こゝに理由があるのだ。即、桜の命乞ひをする必要があつたのだ。此習慣から、実生活に入つて、桜町中納言を持ち出したのである。

     三

平安朝の初めから著しくなつて来るものに、花鎮《ハナシヅ》めの祭りがある。鎮花祭は、近世の念仏踊り・念仏宗の源となり、田楽にも影響を及して居る。
鎮花祭の歌詞は今も残つてゐるが、田歌であつて、かういふ語で終つて居る。
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やすらへ。花や。やすらへ。花や。
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普通は「やすらひ花や」としてゐる。「やすらへ」は「やすらふ」の命令法であつて、ぐづ/\する事である。ぐづ/\して、一寸待つて居てくれと言ふ意味である。だから、此鎮花祭を「やすらひ祭り」と言ふのである。
この祭りの対象になる神は三輪の狭井《サヰ》の神であつて、尠くとも、大和から持ち
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