越した神に相違ない。田の稲の花が散ると困ると言ふ歌を歌つて、踊つたのである。其がだん/\と芸術化し、宗教化して来た。最初は花の咲いて居る時に行うたのであるが、後には、花の散つてしまうてから行はれる様になつた。此では何の役にもたゝない。
日本人の古い信仰では、色々関係の近い事柄は皆、並行して居ると考へてゐた。譬へば田に蝗が出ると、人間の間にも疫病が流行すると考へて居たのも、其だ。平安朝の末になると、殊に、衛生法が行届かなくなつて、死人は加茂の河原や西院に捨てゝ置かれた程である。そこで、普通の考へでは、春と夏との交叉期、即ゆきあひ[#「ゆきあひ」に傍線]の時期に、予め起つて来さうな疫病を退散させる為に、鎮花祭は行はれたものであると言うて居るが、実はさうではない。此以前に、もつと大切な意味があつたのだ。即、最初は花のやすらふ[#「やすらふ」に傍線]事を祈つたのであつた。其が、蝗が出ると、人の体にも疫病が出ると言ふので、其を退散させる為の群集舞踏になつたのだ。此によつても、桜が農村生活と関係あつた事は訣ると思ふ。さう言ふ意味で、山の桜は、眺められたのである。
其後になると、卯の花が咲き、躑躅が咲き、皐月が咲く。卯の花は、卯月に咲くから卯の花だと言はれて居る。此説には私は少し疑ひを持つて居たが、近頃では却つて、此考へに同情して来た。卯月と卯の花とは関係があると思ふ。此 ut は、何か農村の呪法に関係がある様だ。私は卯月と言ふ月は、此と月と結合して出来た語であり、卯の花の u と ut とは同じものと見て居る。
正月に使用するうづゑ[#「うづゑ」に傍線](卯杖)・うづち[#「うづち」に傍線](卯槌)などゝ言ふものがある。形は支那から来て居るが、其元の信仰は日本のものである。うつ[#「うつ」に傍線]には、意味がある。捨てる[#「捨てる」に傍線]も「うつ」である。うつちやる[#「うつちやる」に傍線]・なげうつ[#「なげうつ」に傍線]も、捨てる[#「捨てる」に傍線]事である。古い処では「うつ」は、放擲すると言ふ事に使用されて居る。だから、私は、卯杖・卯槌は、地べたのものを追ひ払ふ為に、たゝくものだと考へて居る。土を敲くのは、土の精霊を呼び醒す事であり、土地の精霊を追ひ払ふ事とも考へて居た。
十月の卯の日に玄猪の行事をする。土龍《モグラ》を嚇すと言ふのは後の附会で、地中に潜んで居る精霊を追ひやるのである。初春に杖をもつて、まづ地面を打つて置き、いよ/\田の行事にかゝる四月になると、復此行事を繰り返す。即、も一度田の行事をするのである。此為、卯月と言ふのだとするのが、私の仮説である。
卯月に咲く山の花なる卯の花は、空木《ウツギ》の花だと言ふ説もあるが、たま/\卯の花を空木の花であると言ふのには、原因があるのである。卯杖《ウヅヱ》・卯槌《ウヅチ》を空木で作り、そして、空木は鬼やらひ[#「鬼やらひ」に傍線]に用ゐる木なのである。即、卯の花が占ひの象徴になつて居ると思ふ。卯の花が早く腐ると困る処から、卯の花くたし[#「卯の花くたし」に傍線]と言ふ名が、雨にまで附けられたのである。卯の花の咲く時分に、長雨が降る。卯の花を腐らせる雨に、気を病んで居る人々が作つた詞である。
これからは、幾らでも、象徴の花が出て来る。卯月に入ると、女達の物忌みが始まる。此事は、柳田国男先生が、最初に注意された。私が、躑躅の花を竿の先につけて外に出す習慣の行はれて居る四月八日の、てんたうばな[#「てんたうばな」に傍線](天道花)の由来を書いた時に、柳田先生は、此時に女の山籠りの習慣があつて、此女たちが山から帰つて来る際に、躑躅の花を持つて来るが、此と関係がある事を指摘された。其為に、私の考へは変つて来たのであつた。

     四

女の物忌みとして、田を植ゑる五月処女《サウトメ》を選定する行事は、卯月の中頃のある一日に「山籠り」として行はれる。さうして、山から下りる時には、躑躅の花をかざして来る。山籠りは、処女が一日山に籠つて、ある資格を得て来るのが本義である。けれども、後には、此が忘れられて、山に行き、野に行きして、一日籠つて来るのは、たゞの山遊び・野遊びになつてしまうた。「山行き」といふ言葉は、山籠りのなごりである。かうして山籠りは、一種の春の行楽になつて了うたが、昔は全村の女が村を離れて、山籠りをした。即、皐月の田植ゑ前に、五月処女《サウトメ》を定める為の山籠りをしたのである。
此山籠りの帰りに、処女たちは、山の躑躅を、頭に挿頭《カザ》して来る。此が田の神に奉仕する女だと言ふ徴《シルシ》である。そして此からまた厳重な物忌みの生活が始まるのである。此かざし[#「かざし」に傍点]の花は、家の神棚に供へる事もあり、田に立てる事にもなつた。此が一種の成り物の前兆になるのである。
四月八日を中心とした此日は、普通「山籠り」の日と言うて居る。此日、村の娘が五月処女《サウトメ》としての資格を得るのである。そうとめ[#「そうとめ」に傍線]と音便で呼ばれる語形さをとめ[#「さをとめ」に傍線]の結合は、近世では出来ない結合である。処女《ヲトメ》は神事に仕へる女、と言ふ事である。をとこ[#「をとこ」に傍線]も神事に仕へる男の意である。処女が花を摘みに行つて、花をかざして来る事は、神聖な資格を得た事であつて、此時に「成女戒」が授けられる。此は一年の中、二度か三度行はれたが、もとは一度であつて、男を避けて暮すのが習慣である。
処女が其資格を得ようとする徴《シルシ》に花かざし[#「花かざし」に傍線]をする。躑躅が用ゐられた。一種の山蔓《ヤマカヅラ》である。こゝに何か秘密な行事があるので、其時に花をさしたと言ふ事が、成女戒を授けられた事になる。此は毎年生れかはる形であるので、毎年受けるものなのだが、一生の中に、二度うける様にもなつた。だが、昔は、事実はおなじ女性がつとめても、毎年別の人が生《ア》れ出て来ると信じて居た。
男は五歳から十歳頃までに袴着《ハカマギ》を行ひ、女は裳着《モギ》をする。此袴着・裳着は、幼時に一度行ふばかりでなく、大きくなつてから今一度行ふ。貴族の男児は、成年戒には黒※[#「巾+責」、第3水準1−84−11]をつける。其形は日本在来の鬘の形で、後方で結んで居て、植物の蔓を頭へ巻いたと同じ形である。物忌みの間につける蔓の形が、支那の※[#「巾+責」、第3水準1−84−11]の形と合して、黒※[#「巾+責」、第3水準1−84−11]となつたのだ。
此に対して女は「はねかづら」を着ける。万葉集には「はねかづら」と言ふ語が四个所に出て来る。
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はね蔓今する妹を夢に見て、心の中《ウチ》に恋ひわたるかも(家持――巻四)
はね蔓今する妹はなかりしを。如何なる妹ぞ、許多《コヽダ》恋ひたる(童女報歌)
はね蔓今する妹をうら若み、いざ、率《イザ》川の音のさやけさ(巻七)
はね蔓今する妹がうら若み、笑《ヱ》みゝ、怒《イカ》りみ、つけし紐解く(巻十一)
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即「はね蔓《カヅラ》今する妹」といふ様な形になつてゐる。此はねかづら[#「はねかづら」に傍線]は花かづら[#「花かづら」に傍線]の事であらう、と言ふ説がある。其はとにかく、此ははねかづら[#「はねかづら」に傍線]を着ける事かどうか判明しないが、尠くとも、純粋の処女の時代であつて、手の触れられない事を意味する物忌みの徴《シルシ》のものであるらしい。
処女を犯すと、非常な穢れに触れるのだ。曾て私は、小田原で猟師の歌つてゐる唄を聞いた。其は「下田の沖のけなし島[#「けなし島」に傍線]。けのないヽヽヽヽはかはらけだ。かはらけヽヽすりや七日の穢れ。七日どころか一生の穢れ」といふのである。即、けなし島[#「けなし島」に傍線]と言ふ所に、処女の期間を意味して居る。つまり処女犯には、七日のつゝしみ[#「つゝしみ」に傍線]を経なければならぬと言ふ事で、即、神事に仕へない女は、女ではなかつたのである。神事に仕へると、神の成女戒を受ける。神のためしを受けて、始めて、男に媾ふ事が出来るのである。
処女がはねかづら[#「はねかづら」に傍線]をするのは、成女戒の前である。成女戒が済めば、其|鬘《カツラ》を取つてしまふ。はねかづら[#「はねかづら」に傍線]は、花でなくても、尠くとも植物ではあらう。けれども、此は結局、今日からは解く事は出来ない。ただ当時は、此だけで、皆了解出来たのであらう。とにかく、これが、男の黒※[#「巾+責」、第3水準1−84−11]になつたものと同様に、女の物忌みの徴であつた。
壱岐では、独身者が死ぬと、頭陀袋《ヅダブクロ》を首に懸けさせて、道々花を摘んでは入れてやる。この意味は、女房をもたぬ男が死ぬと、地獄へ行つて、手で筍を掘らねばならぬ。其を助ける為と言ひ、此袋の事を「花摘み袋」と言ふ。信州松本辺でも聞く話である。吾々は、花がなければ、村の人間の行つて居る処へ、行く事が出来ぬ。即、村人の魂の居る所へ行くには、花の鬘が必要であつたのである。
沖縄では、子供の墓と大人の墓とは区別されて居る。花摘み袋の習慣が、仏教の輸入後、頭陀袋を利用する様になつたのである。近頃では、男の習慣ばかりが残つてゐる。ともかく、男でも女でも、花が成年戒を受けた徴になつてゐたと思はれる。此が、夏の田植ゑの為の神人を定める行事であり、又、田の実りの前兆を見る行事の意味に附帯して来る。田の畔に躑躅の花を樹てるのも、此習慣からである。躑躅は、桙や杖と関係が少くなつて来て、かざし[#「かざし」に傍線]の方に近づいて来る。

     五

椿の花は疑ひもなく、山茶花の事である。海石榴と書いて居るのが、ほんとうである。椿には意味がある。大和にも豊後にも、海石榴市《ツバイチ》があつた。市は、山人が出て来て鎮魂して行く所である。此時、山人が持つて来た杖によつて、市の名が出来たものである。椿の杖を持つて来て、魂《タマ》ふり[#「ふり」に傍線]をした為に、海石榴市と称せられたのであらうと思ふ。豊後風土記を見ると、海石榴市の説明はよく訣る。
椿の枝は、近世まで民間伝承に深い意味があつて、八百比丘尼の持ち物とせられてゐる。八百比丘尼はよく訣らないものであるが、室町時代には出て来て居り、其形から見ると、山姥が仏教的に説明せられたものに違ひない。何時までも若く又は、死なぬ長寿者であつて、熊野の念仏比丘尼が諸国を廻つたものと、山姥の考へとが結合したものである。山姥は、椿の枝を山から持つて来て、春の言触《コトフ》れをするのである。春の報《シラ》せには、山茶花は早く咲くから、都合のよい木である。即、山姥が、椿でうら[#「うら」に傍線]を示したのである。
口から吐く唾[#「唾」に傍点]と花の椿とは、関係があつて、人間の唾も占ひの意味を含んでゐたのは事実だ。つ[#「つ」に傍点]はつば[#「つば」に傍線]の語根であり、唾[#「唾」に傍点]はつばき[#「つばき」に傍線]である。椿がうら[#「うら」に傍線]を示すもの故、唾にも占ひの意味があるのだらうと考へたのである。どの時代に結合したか訣らぬが、時代は古いもので、つ[#「つ」に傍点]に占ひの意味が含まれてゐる。だから、椿と言ふ字が出来て来る。春に使われる木だから椿の宛て字が出来た。
私は、椿の古い信仰は、熊野の宗教に伴うて残つたものではないかと思ふ。熊野の男の布教者は、梛《ナギ》をもつて歩き、女の布教者は、椿をもつて歩いたのではあるまいか。此は、私の仮説である。とにかく、山人が椿の桙を持つて来たから、海石榴市である。
榎も、今言ふ様なものではない。え[#「え」に傍点]の音の木は沢山ある。朴の木、橿《カシ》の木の一種にもおなじ名がある。此は「斎《ユ》」と関係があるらしい。柳《ヤナギ》は斎《ユ》の木《キ》である。矢《ヤ》の木ではなくて、斎《ユ》の木、即、物忌みの木である。ゆのぎ[#「ゆのぎ」に傍線]がやなぎ[#「やなぎ」に傍線]になつて来たのである。万葉集・古今集などに青やぎ[#「青やぎ」に傍線]とあるが、やぎ[#「や
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