河童の話
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)尾《ツ》けて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)長者|原《バル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「牛+子」、287−5]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)どん/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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私はふた夏、壱岐の国へ渡つた。さうして此島が、凡北九州一円の河童伝説の吹きだまりになつてゐた事を知つた。尚考へて見ると、仄かながら水の神信仰の古い姿が、生きてこの島びとの上にはたらいて居るのを覚つた。其と今一つ、私はなるべく、認識不十分な他人の記録の奇事異聞を利用する前に、当時の実感を印象する自分の採訪帳を資料とする事が、民俗の学問の上に最大切な態度であると思ふ故に、壱岐及びその近島の伝承を中心として、この研究の概要を書く、一つの試みをもくろんだのである。
この話は、河童が、海の彼岸から来る尊い水の神の信仰に、土地々々の水の精霊の要素を交へて来たことを基礎として、綴つたのである。たゞ、茲には、その方面の証明の、甚しく興味のないのを虞れて、単に既に決定した前提のやうにして、書き進めたのである。
この話の中にさしこんだ河童の図は、すべて、元熊本藩の水練師範小堀平七さんの家に伝る、河童の絵巻から拝借した。
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     一 河童の女

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河郎の恋する宿や夏の月
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蕪村の句には、その絵に封ぜられたものが、極端に出てゐる。自由にふるまうた様でも、流派の伝襲には勝てなかつたのである。彼の心の土佐絵や浮世絵は誹諧の形を仮りて現れた。此句だつて、唯の墨書きではない。又単に所謂俳画なるものでもない。男に化けて、娘の宿を訪ふ河童。水郷の夜更けの夏の月。ある種の合巻を思はせる図どりである。かうした趣向は或は、蕪村自身の創作の様に見えるかも知れぬ。尤、近代の河童には、此点の欠けて居る伝説は多いが、以前はやつぱりあつたのである。
私は、二度も壱岐の島を調べた。其結果、河を名とする処から、河童の本拠を河その他淡水のありかと思うて来た考へが、壊れて了うた。長者|原《バル》と言ふ海を受けた高台は、があたろ[#「があたろ」に傍線]を使うて長者になつた人の屋敷趾だと言ふ。其は小さな、髪ふり乱した子どもの姿だつた。其が来初めてから、俄かに長者になり、家蔵は段々建て増した。があたろ[#「があたろ」に傍線]が歩いた処は、びしよ/″\と濡れてゐる。畳の上までも、それで上つて来る。果ては、長者の女房が嫌ひ出して、来させない様にした。すると忽、家蔵も消えてなくなり、長者の後に立つて居た屏風は、岩になつて残つた。此は男の子らしい。
平戸には、女のがあたろ[#「があたろ」に傍線]の話をしてゐる。ある分限者の家に仕へた女、毎日来ては、毎晩帰る。何処から来るか、家処をあかさない。ある時、後を尾《ツ》けて行くと、海の波が二つに開けた。通ひ女はどん/\、其中へ這入つて見えなくなつた。女は其を悟つたかして、其後ふつつり出て来なくなつたと言ふ。
[#「小堀平七氏蔵絵巻による」のキャプション付きの河童の図(fig18395_01.png)入る]
此二つの話で見ると、毎日海から出て来る事、家の富みに関係ある事、ある家主に使はれる事、主の失策を怨んで来なくなること、女姿の、子どもでないのもある事などが知れる。だが外に、通ひでなく、居なり[#「居なり」に傍点]の者もあつたらしい。殿川《トノカハ》屋敷と言ふのは、壱州での豪家のあつた処である。或代の主、外出の途中に逢うた美しい女を連れ戻つて、女房とした。子までも生んだが、ある時、屋敷内の井《カハ》へ飛びこんで、海へ還つて了うた。其時、椀を持つたまゝ駈け出したので、井の底を覗くと、椀の沈んでゐるのが見えると言ふ。この「信田妻《シノダヅマ》」に似た日本の海の夫人の話を、あの島でも、もう知つた人が、少くなつて居た。此伝へで訣るのは、井の如き湧き水も、地下を通つて、海に続いて居るとした、考への見える事である。
かうした物語を伴はぬ、信仰そのまゝの形は、日本国中に残つてゐる。「若狭井」型の他界観である。二月堂の「水とり」は、若狭の池の水を呼び出すのだと言ふ。諏訪の湖《ウミ》・琵琶湖・霧島山の大汝《オホナメ》の池など、懸け離れた遠方の井や湧き水に通じてゐると言ふ。不思議なのは又龍宮へ通うてゐると言ふ、井戸・清水の多い事である。規模の大きなのは、龍宮は、瀬田の唐橋の下から行けるなど言ふ。だが、龍宮に通ずる水が、なぜ塩水でないのか、説いたものはない。一年の中ある時の外、使はなかつた神秘の水のあつた事を、別の機会に書きたいと思うてゐる。神聖な淡水《まみづ》が、海から地下を抜けて、信仰行事の日の為に、湧き出るのだと思うてゐたらしいのである。海からなぜ塩気のない水が来るか、此問題は、茲には説いて居られぬ程、長い説明がいる。神聖な地域の湖・池に通じるとする信仰も、実は、此海から来る地下水の考への変形である。
此話には、河童とは言うて居ぬ。が、井・泉から、海に行き来したものゝあることは知れる。河童が、とんでもない山野・都邑の清水や井戸から、顔や姿を表した話は、どなたも、一つや二つ聞いた気がせられるはずだと信じる。
男であれ女であれ、人の姿を仮りて、人間と通婚する伝説にも亦、其本体を水界の物としたのが多い。前の殿川屋敷のも、此側の型を河童の中へ織りこんだものらしい。
[#後ろ向きの河童の図(fig18395_02.png)入る]
馬の足がた[#「足がた」に傍点]ゞけの溜り水があれば、河童が住んでゐると言ふ分布の広い諺も、地下水の信仰から、水の精霊は、何処へでも通ふものと考へたのである。厠の下から手を出して、いたづらをしたものは、大抵、狸になつて了うてゐるが、猿や猫とする例も少くない。だが、厠の様式にも、歴史があつた。其変化に伴うて、適当な動物が、入り替つて来た。だが、考へると、やはり水溜りだつたので、河童の通ひ路は通《トホ》つてゐたのである。毛だらけの手が出て、臀べたを撫でたゞけでは、よく考へると、何の為にしたのか知れない。示威運動と見るのが、普通であらうが、人を嫌ふ廃屋の妖怪には、少しとてつ[#「とてつ」に傍点]もない動作である。何も仰山に、厠が語義どほりの川屋で、股の間から、川水の見えた古代に遡らずとも、説くことが出来よう。だが若し、さう言ふ事が許されるなら、丹塗りの矢に化成して、処女の川屋の下に流れ寄つて、其恥ぢ処に射当つたと言ふ、第一代の国母誕生の由来も、考へ直さねばならぬ。厠の下から人をかまふ[#「かまふ」に傍点]目的が、単にしりこ[#「しりこ」に傍点]を抜くばかりでなかつたのかも知れない。
[#四つん這いの河童の図(fig18395_03.png)入る]
雪隠の下の河童の覘《ねら》ふものは、しりこだま[#「しりこだま」に傍点]であつた。何月何日、水で死ぬと予言せられた人が、厳重に水を忌んだが、思ひも設けぬ水に縁ある物の為に、命を失ふ話の型の中に、其日雪隠に入つて、河童にしりこ[#「しりこ」に傍点]を抜かれた話もある。厠の中を不似合として、手水鉢の中から出たことにしてゐる例は、筑前三井郡出身の本山三男さんから報告せられた。
殿川屋敷の井《カハ》に沈んでゐる椀も、河童と因縁の浅からぬものなのである。他界の妻の残して行つたものゝ伝へも、段々ある。残す物にも色々あらうに、椀を残して去つたのは、水の精霊の旧信仰の破片が、こびりついて居るのである。此は河童の椀貸しの話に寄せて説きたい。
[#「右水虎圖依懇望乞需之以大久(久)保忠寄所藏之本模寫之者也…」のキャプション付きの河童の図(fig18395_04.png)入る]
ある家の祖先の代に、河童が来て仕へた話は、大抵簡単になつてゐる。毎夜忍んで来て、きまつた魚を残して戻る。なぜ、今では来なくなつたとの問ひを予期した様に、皆結局がついてゐる。河童の大嫌ひなものを、故意に何時もの処に置いた。其を見て、恐れて魚を搬ばなくなつたと言ふのだ。河童が離れて、ある家の富みが失はれた形を、一部分失うた事に止めてゐるのが、魚の贄《ニヘ》の来なくなつた話である。家の中に懸けられる物は、魚も一つの宝《タカラ》である。異郷の者が来て、贄なり裹物《ツト》なりを献げて還る古代生活の印象が結びついて、水界から献つた富みの喪失を、単に魚の贄《ニヘ》を失うた最低限度に止めさせたのである。農村の富みは、水の精霊の助力によるものと信じて居た為である。家の栄えの原因は、どうしても、河童から出たものとせねばならぬ。だから、河童を盛んに使うた時代のあることを説いてゐる。河童駆使の結果は、常に悲劇に終るべきを、軽く解決したのである。昔から伝へた富み人の物語が、今ある村の大家の古事にひき直して考へられたのである。
[#「川太郎…」のキャプション付きの河童の図(fig18395_05.png)入る]

     二 河童使ひ

河童が、なぜ[#「なぜ」に傍点]人に駆役せられる様になつたか。此には、日本国中大抵、其悪行の結果だとしてゐる。人畜を水に曳きこんだ、又、ひきこまうとしたのが、捉まつた為とするのである。
最初に結論から言はう。呪術者に役《エキ》せられる精霊は、常に隙を覗うてゐる。遂に役者《エキシヤ》の油断を見て、自由な野・山・川・海に還るのである。河童の贄を持つて来なくなつたのも、長者の富みを亡くしたのも、皆此考へに基いて居る。
役者《エキシヤ》は、役霊を駆使して、呪禁《ジユゴン》・医療の不思議を示した。ある家の主に伝はる秘法に、河童から教へられたものとするのが多い訣である。河童の場合は、接骨の法を授けたと言ふ形が、多様に岐れたらしい。金創の妙薬に、河童の伝法を説くものが多いが、古くはやはり、手脚の骨つぎを説いたものらしい。馬術の家には、落馬したものゝ為の秘法の手術が行はれた。その本縁を説明する唱言も、共に伝つた。恐らく、相撲の家にあつたものを移して、馬との関係を深めたものと思はれる。河童に結びついた因縁は、後廻しにする。
人に捉へられた河童は、其村の人をとらぬと言ふ誓文を立てる。或は其誓文は、ひき抜かれた腕を返して貰ふ為にする様になつてゐる。腕の脱け易い事も、河童からひき放されぬ、重要な条件となつてゐた時代があつたに違ひない。其が後には、妖怪の腕を切り落す形になつて行く。柳田先生は、此を河童考の力点として居られる。羅城門《ラシヤウモン》で切つた鬼の腕も、其変形で、河童から鬼に移つたのだと説かれた。此鬼と同様、高い処から、地上の人をとり去らうとする火車《クワシヤ》なる飛行する妖怪と、古猫の化けたのとの関係をも説かれた。
[#「寛永年中豐後國肥田ニテ所獲水虎寫眞…」のキャプション付きの河童の図(fig18395_06.png)入る]
其後、南方熊楠翁は、紀州日高で、河童をかしやんぼ[#「かしやんぼ」に傍点]と言ふ理由を、火車の聯想だ、と決定せられた。思ふに、生人・死人をとり喰はうとする者を、すべてくわしや[#「くわしや」に傍点]と称へた事があつたらしい。火車の姿を、猫の様に描いた本もある訣である。人を殺し、墓を掘り起す狼の如きも、火車一類として、猫化け同様の話を伝へてゐる。老女に化けて、留守を家に籠る子どもをおびき出して喰ふ話は、日本にもある。又、今昔物語以来、幾変形を経た弥三郎といふ猟師の母が、狼の心になつて、息子を出先の山で待ち伏せて喰はうとして、却て切られた越後の話などが其である。さう言ふ人喰ひの妖怪の災ひを除く必要は、特に、葬式・墓掘りの際にあつた。坊さんの知識から、火車なる語の出た順序は考へられる。江戸中期までの色町に行はれたくわしや[#「くわしや」に傍点]なる語は、用法がいろ
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