/\ある。よび茶屋の女房を言ふ事もあり、おき屋の廻しの女を斥《サ》しても居る。くわしや[#「くわしや」に傍点]を遣り手とも言うてゐるが、後にはくわしや[#「くわしや」に傍点]よりも、やりて[#「やりて」に傍点]が行はれた。さうして、中年女を聯想したくわしや[#「くわしや」に傍点]も、やりて[#「やりて」に傍点]と替ると、婆と合点する程になつた。くわしや[#「くわしや」に傍点]の字は、花車を宛てゝゐるが、実は火車であらう。人を捉へて、引きこむ様からの名であらう。おき屋から出て、よび屋を構へたのをも、やはりくわしや[#「くわしや」に傍点]と呼んだのであらう。芝居に入つて「花車形」といはれたのは、唯の女形のふけ役の総名であつた。
[#「右ノ圖河童寫眞深川木場ニテ捕所ノモノナリ…」のキャプション付きの河童の図(fig18395_07.png)入る]
手の抜ける水妖は、あいぬ[#「あいぬ」に傍線]の間にもあつた。みんつち[#「みんつち」に傍点]と言ふ。形は違ふが、河童に当るものである。金田一京助先生は、手の抜け易い事を、草人形《クサヒトガタ》の変化《ヘンゲ》であるからだ、と説明して居られた。藁人形などの手は、皆|心《シン》は、竹や木である。草を絡んだ一本の棒を両手としてゐる。其で引けば、両方一時に抜けて来るとも言はれた。みんつち[#「みんつち」に傍点]の語自身が和人《シヤモ》のものである様に、恐らくは此信仰にも、和人の民俗を含んで居ると思ふ。
草人形が、河童になつた話は、壱岐にもある。あまんしやぐめ[#「あまんしやぐめ」に傍点]は、人の村の幸福を呪うて、善神と争うて居た。土木に関しての伝への多い、此島の善神の名は、忘れられたのであらう。九州本土の左甚五郎とも言ふべき、竹田の番匠の名を誤用してゐる。ばんじよう[#「ばんじよう」に傍点]とあまんしやぐめ[#「あまんしやぐめ」に傍点]が約束した。入り江を横ぎつて、対岸へ橋を架けるのに、若し一番鶏の鳴くまでに出来たら、島人を皆喰うてもよい、と言ふのである。三千体の藁人形を作つて、此に呪法をかけて、人として、工事にかゝつた。鶏も鳴かぬ中に、出来あがりさうになつたのを見たばんじよう[#「ばんじよう」に傍点]は、鶏のとき[#「とき」に傍点]をつくる真似を、陰に居てした。あまんしやぐめ[#「あまんしやぐめ」に傍点]は、工事を止めて「掻曲放擲《ケイマゲウツチヨ》け」と叫んだ。其跡が「げいまぎ崎」と言はれてゐる。又三千の人形に、千体は海へ、千体は川へ、千体は山へ行け、と言うて放した。此が皆、があたろ[#「があたろ」に傍点]になつた。だから、海・川・山に行き亘つて、馬の足形ほどの水があれば、其処にがあたろ[#「があたろ」に傍点]が居る。若し人の方の力が強ければ、相撲とりながら、其手を引き抜く事も出来る。藁人形の変化だからと言ふのである。
両手が一時に抜けたとは言はぬが、あいぬ[#「あいぬ」に傍線]のみんつち[#「みんつち」に傍点]に似過ぎる程似てゐる。夏祓へに、人間の邪悪を負はせて流した人形《ヒトガタ》が、水界に生《シヤウ》を受けて居るとの考へである。中にも、田の祓へには、草人形を送つて、海・川へ流す。夏の祓へ祭りと、河童と草人形との間に、通じるものゝあるのは、尤である。而も、河童に関係浅からぬ相撲に、骨を脱《ハヅ》して負ける者の多い処から、愈河童と草人形との聯想が深まつて来た、と思はれる。
[#嘴と翼をもつ河童の図(fig18395_08.png)入る]
古代の相撲は、腕を挫き、肋骨[#「肋骨」は底本では「助骨」]や腰骨を蹶折る、と言つた方法さへあつた様である。中古以後、秋の相撲節《スマフノセチ》に、左方の力士は葵花、右方は瓠《ヒサゴ》花を頭へ挿して出た。瓠は水に縁ある物だから、水の神所属の標らしく、さうして見ると、葵は其に対立する神の一類を示すものであらう。必しも加茂とも考へられぬが、威力ある神なのであらう。瓠花も、瓢も、他の瓜で代用が出来た。
だが、なぜ後世渡来の胡瓜をば、水の精霊の好むものと考へたのだらう。恰好は、稍瓠の小形なものに似て、横に割つた截り口が、丸紋らしい形を顕してゐる。祇園守りの紋所だと言ふ地方が広い。瓜の中に神紋らしいものゝ現れて居り、ひねる[#「ひねる」に傍点]となかご[#「なかご」に傍点]が脱けて了ふ。「祇園祭り過ぎて胡瓜を喰ふな。中に蛇がゐる」との言ひ習しも、いまだに、各地に残つてゐる。祇園は異風を好んだ神である。此神の為にはかうした新渡の瓜を択ぶ風が起つた為とも考へられる。瓜に顔を書いて流す風もあつた。胡瓜に目鼻を書くと、いぼ/\の出た恐しい顔になる。この怖い顔した異国の瓜を、他界から邪悪を携へて来た神の形代として流し送る。かうした考へから、夏祓への川祭りに、胡瓜が交渉を持つ様になつたのであらう。其が次第に、水の神への供養と言ふ様に、思はれて行つたのではないか。其で、河童の好物を胡瓜とする考へが、導かれて来たと思はれる。
[#「全身薄墨ヌリ」のキャプション付きの河童の図(fig18395_09.png)入る]

     三 河童の馬曳き

馬も牛も、人と同じ屋根の下に起き臥しゝてゐた。田舎では、今も牛部屋、厩を分けないで居るのが多い。かうした人間の感情を稍理解する畜類に対しては、やはり一種の祓への必要を感じ出したのである。二月頃に、多くは午の日だが、縁日の日どりに従うて、外の日にする事もある。牛馬を曳いて、山詣りをする。此は御事始めの日から初まる田の行事の為に、田に使ふ畜類に、山籠りをさせる風の変化したものである。牛の方にまづ行はれた事が、馬にも及んだらしい。後には馬の用途が広まつて、馬の山詣りが殖えて来、午の日を、春祭りの縁日とする社寺を択ぶ様にもなつた。
田植ゑが過ぎると、牛には休養の時が来る。馬には、其がない。牛の※[#「牛+子」、287−5]が生れると、其足形を濡れ紙にとつて、入り口の上に貼る。既に祓へのすんだ、牛ばかりゐる標である。悪霊の入り来て、※[#「牛+子」、287−6]を犯す事を避けたのである。牛は、水に縁の濃やかな獣である。土用丑の日を以て、形式にでも、水に浸らねばならなかつた。淵や滝壺の主《ヌシ》に、牛の説かれてゐる処もかなりにある。
馬にも、やはり川入りの日があつた。其為に、馬も亦、水神と交渉を持つ様になつた。尾張津島祭りも、一部分は、馬の禊ぎを含んで居る。この社の神人が、厩の護符を配り歩いたのは、多くの馬に代つた、神馬の禊ぎの利益に与らせようとするのである。馬は、津島の神馬である。馬の口綱をとつて居るのは、猿である。神人であることもある。猿を描いたのは、津島以外の形式が、這入つて居るのである。此は、大津東町に処を移した穴太《アナホ》の猿部屋の信仰である。日吉山王の神猿が、神馬の口添ひとなつて、神の伴をすると考へた為である。神馬に禊ぎをさせるのも、此猿である。この猿の居る処には、神馬に障りがない。其にあやからせようと言ふのが、馬曳き猿の護符であつた。今も、途上で逢ふ事である。馬の腹掛けに、大津東町と染め出したのをつけて居る。其馬の、猿部屋の守護を受け、日吉の神馬の禊ぎに与つたものとの標である。
昔は、日本の国中、陸地に於いては、馬ほどの強さを思はせるものはなかつた。其が一歩、河に踏み入ると、水に没して居る小さな水妖の為に、引きこまれる事があると考へた。水を頂くが為に強い河童の力を、以前からある頭の皿に結びつけた。其処にある水をふりこぼされると、河童の力はなくなると言ふ様にも、合理化して考へられる様になつたのである。
日吉の使はしめの猿は、水の良否をよく見分ける。湖水近くおりて居て、水を見て居る。そして、最浄い水の到るのを待つて、神に告げて、神の禊ぎをとり行ふ。かうした信仰から、悪い水や、水の中に邪悪の潜んで居る事をも、よく悟るとせられた。此考へから、屋敷の水を讃めるのを中心にした、庭のことほぎ[#「ことほぎ」に傍点]には、猿が出て来る様になつた。其から拡つて、屋敷・建て物の祝福や、屋敷に入り来る邪悪・疫癘退散の為にも、猿を舞はせる風を生じた。
馬の脊に跨つた神を観じたのは、何時頃からか、細かな事は知れぬが、古代日本では、神の畜類に乗る事は考へなかつた。馬が尊貴の乗り物とせられて後も、さう馬に乗る事を許された神はなかつた。人乗りはじめて、此を神に及す様になつたのである。宮廷から、馬を進められる様になると、其神の資格は、高くなつたのである。祝詞にも、白き馬を寄せられる文句の見えて居り、絵馬を捧げる風の、わりに早くから行はれたのは、外に理由はあるが、此方面からも、説かねばならぬ。平安朝以後、低い神々は、心から馬を羨望して居た。馬に乗つた人が通ると、脚を止めたり、乗りてをふり落したりさせた。唯後世風に考へると、乗りうちしたのを咎める様に見えるのである。おなじ下座の神と考へられる様になつた水の神なども、馬を欲しがつて居た。其で、水に近よる馬を取らうとすると言ふ風に、推し当てに、神・精霊の心を考へた。此が、河童の馬を引きこまうとして、失敗した話の種である。さうして、人間に駆使せられる河伯と結びつけて、命乞ひに誓文し、贄を献り、秘法を知らせると言つた説明をつけたのである。
えんこ[#「えんこ」に傍点]・えんこう[#「えんこう」に傍点]は、猿猴から出たと言ふ考へは、誰しも信じ易い考へなるが為に、当分動す事は出来さうもない。だが、何の為にわざ/\さる[#「さる」に傍点]を避けて、耳遠い音を択んだのか、私には判断がつかない。或は井子《カハゴ》・かご[#「かご」に傍線]など言ふ類例から推すと、「井《ヰ》の子《コ》」から出たものが、聯想で、猿猴其まゝ「ゑんこう」とも発音したのかも知れない。
若し又、ゑんこう[#「ゑんこう」に傍点]を猿猴に違ひないとすれば、水を守る神猿を、やがて水の精霊と見て、猿即河童として、水界に多くゐる方をゑんこう[#「ゑんこう」に傍点]と言ひ別けたともとれる。
馬曳き猿を、河童の変形とする事は、猿とゑんこうと[#「ゑんこうと」に傍点]、関係の説明はついても、まだ/\出来ない。唯、此護符を貼つて、馬の災厄を除くことの出来るものとした原因だけは、わかつたと思ふ。馬術の家の伝へとても、やはり猿曳きや、馬曳き猿の信仰を述べた神人等のものと岐れる元は、一つであつたであらう。

     四 椀貸し淵

大和の水木直箭さんの作つた柳田先生の著作目録の中にも、一つの重要な項目になつてゐるものに「椀貸し塚」がある。私一己にとつては、非常な衝動を受けた研究である。今は、先生の論理の他の一面に、かうした考へ方もなり立ちさうだ、と言ふ点だけを述べて、重複を避けたいと思ふ。
椀貸し伝説の中には、河童を言はないものも多い。だが此は、塚の内部に、湧き水のある様な場処に移した話が、後には、唯の塚にまで、推し及したものと思ふ。私は、やはり水辺の洞穴や、淵などの地下水の通ひ路と考へられる処を言ふ方が、元の形に近いのではないかと思ふ。
膳椀何人前と書いた紙を、塚なり、洞なり、淵なりへ投げこんで置くと、其翌日は、必註文どほりの木具の数を揃へて、穴の口や、岩の上などに出してあつた。或時、借りた数だけ返さなかつた事があつて以来、貸してくれなくなつた、と言ふ結末が必、ついてゐる。此椀の貸し主は、誰とも言はぬ伝へが多い。中にはつきりしてゐるのは、龍宮といひ、河童・狐を言ふものである。狐でゞもなければ、そんな不思議は顕されないと考へたのは、水に縁のない山野の塚には、時々狐の出入りするのを見かけることのある為である。
今もあることだが、昔ほど激しかつた。一年に一度、数年に一度の客ぶるまひの為に、何十人前かの木具を揃へて蔵して居る家が多かつた。中には、一代一度など言ふのさへ、上流社会にはあつたものである。此話の、さう近代出来でない様子から見ても、小まへ[#「小まへ」に傍点]百姓などが、木具の膳椀で、客をする夢も見なかつた頃にも既にあつたらしいことは、鑑定がつく。其では、その前の漆塗りの木
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