具のなかつた時代には、此話はなかつたかと言ふと、其頃相応な客席の食器を考へてゐた事も考へられる。だが、其から溯ると、此が伝説でなく、生活そのものであつた時代に行き当る。
平安朝以後の公家生活には、時々行はれる大饗などが大事件であつた。高官が昇進すると、一階上の上官を正客(尊者といふ)として、大規模な饗宴を催したものである。其夕方、尊者来臨の方式がやかましかつた。宴席の様子が又、不思議なものであつた。まるで、神祭りの夜に、神を迎へる家の心持ちが充ちてゐた。私は、日本の宴会は、都が農村であつた時代から、大した変化もなくひき続いたもので、すべては、神の来る夜の儀式を、くり返してゐたものと信じてゐる。
饗宴用の食器に違ひない朱器(盃)・台盤(膳)を、何よりも大切な重宝としたのは、藤原家であつた。大きな藤原一族の族長たる氏《ウヂ》の上《カミ》の資格は、此食器の所在によつて定まつたのである。宮廷における三神器の意義に近い宝だつたのである。此は、藤原良房の代に作られたものだと言ふ。私は、其時を食器の歴史に革命があつて、古い物を改修した時だと考へて居る。何にしても、食器にさうした意義の生じたのは、氏の上の条件として必行ふべき饗宴があつたことを暗示してゐるからである。
あるじ[#「あるじ」に傍線]と言ふ語は、饗応の義から出て、饗応の当事者に及んだのである。家長の資格は、客ぶるまひを催す責任の負担から出てゐる。饗宴は、家族生活の第一義だつた。神聖な食器の保存に注意を払ふ風は、時代が遷つても、変らなかつた。唯食器にも、推移があつた。どうしても、伝来の物の代りに、近代のを用ゐねばならぬ様になつて行つた。其誘因としては、壊れたり、紛失したりする事と、伝統的な器具を持たぬ新しい家が、後から/\興つて来た事である。
客の数は、信仰の上から固定したものが多かつた。だから時代が変つても、多くは常に一定してゐた。一椀一皿が不足しても、完全な客ぶるまひは出来ない。食器の数を完備する事に苦労した印象は、新しい器を採用する様になつても残つてゐた。椀貸し穴の、椀を貸さなくなつた原因を、木具の紛失で説いたのも、此印象が去り難かつた為であらう。宴席に並んだ膳椀の数を見ても、一目に其家の富みが思はれる。此栄えは、農村経済の支配者なる水の神の加護によつて得たものである。木具の古びを見ても、此家の長い歴史が思はれる。何処に蔵つてあるとも、家族さへ知らぬ木具類が、時あつて忽然として、とり出されて来る。さうした事実をくり返し見て居る中に、椀貸しの考へは起つて来る。水の神から与へられた家の富み、其一部としては、数多い膳椀。水の神から乞ひ受けた物と言ふ風に考へる外はない。此が、稀に出現する様を見た迄は、事実であり、古代式の生活をくり返した農村全体の経験の堆積であり、疑問の歴史でもあつた。
かういふ経験が、記憶の底に沁み入つて、幾代かを経る。すると、さうした農村の大家の、富みの標となる財貨《タカラ》を、挿話にして、逆に、其家の富みの原因を物語る話に纏つてゐた。廉々《カド/\》は旧い伝説の型に嵌つた説明で、現実を空想化してゐる。膳椀の忽然と出て来る理由を、時をきめて、水の精霊から借り出すと考へた事実に即した想像と、逆に精霊の助力を受けた者に考へ易い最後の破綻の聯想とが、同時に動いて来る。さうして其中間に、器具紛失・損傷の古い記憶が蘇つて来て、伝説らしい形が整ふ。すると又、紛失とするよりも、神・精霊を欺く人間の猾智の型で説明する合理欲が、此話を、一層平凡な伝説の形に、整頓して了つたのである。
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金の網かゝれとてしも波の月(信章)
河童の生けどり[#「河童の生けどり」に白丸傍点]秋を悲しむ(同)
うそ噺聞けばそなたは荻の声(桃青)
地獄のゆふべさうもあらうか(章)
飛ぶ蛍水は却つて燃え上り(青)
熊手鳶宮勢多の長橋[#「勢多の長橋」に白丸傍点](章)
釣瓶とり龍宮までも探すらむ[#「釣瓶とり龍宮までも探すらむ」に白丸傍点](青)
亀は忽下女と現れ[#「亀は忽下女と現れ」に白丸傍点](章)     (江戸両吟集)
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河童の聯想が尚きれないで、四句隔てた勢多の長橋に刺戟せられて復活してゐる。釣瓶とりの句も其だ。亀の下女も其だ。たゞ河童の下女を逃げたゞけである。私どもから言はせればやつぱり打ち越し[#「打ち越し」に傍点]である。

     五 頭の皿

水の神が、膳椀ばかり貸してくれた理由は、わかつたとしても、どこかやはり落ちつかぬ処がある。客ぶるまひの木具を貸す事になつた隠れた原因は、二つあげて置きたい。饗応を受けに来る正客は、水の神自身だつたらしいこと、河童の皿の、なぜ問題になるのかといふ事の説明である。農村の饗宴に臨む者は、色々な形に変化はしてゐて
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