陸地に於いては、馬ほどの強さを思はせるものはなかつた。其が一歩、河に踏み入ると、水に没して居る小さな水妖の為に、引きこまれる事があると考へた。水を頂くが為に強い河童の力を、以前からある頭の皿に結びつけた。其処にある水をふりこぼされると、河童の力はなくなると言ふ様にも、合理化して考へられる様になつたのである。
日吉の使はしめの猿は、水の良否をよく見分ける。湖水近くおりて居て、水を見て居る。そして、最浄い水の到るのを待つて、神に告げて、神の禊ぎをとり行ふ。かうした信仰から、悪い水や、水の中に邪悪の潜んで居る事をも、よく悟るとせられた。此考へから、屋敷の水を讃めるのを中心にした、庭のことほぎ[#「ことほぎ」に傍点]には、猿が出て来る様になつた。其から拡つて、屋敷・建て物の祝福や、屋敷に入り来る邪悪・疫癘退散の為にも、猿を舞はせる風を生じた。
馬の脊に跨つた神を観じたのは、何時頃からか、細かな事は知れぬが、古代日本では、神の畜類に乗る事は考へなかつた。馬が尊貴の乗り物とせられて後も、さう馬に乗る事を許された神はなかつた。人乗りはじめて、此を神に及す様になつたのである。宮廷から、馬を進められる様になると、其神の資格は、高くなつたのである。祝詞にも、白き馬を寄せられる文句の見えて居り、絵馬を捧げる風の、わりに早くから行はれたのは、外に理由はあるが、此方面からも、説かねばならぬ。平安朝以後、低い神々は、心から馬を羨望して居た。馬に乗つた人が通ると、脚を止めたり、乗りてをふり落したりさせた。唯後世風に考へると、乗りうちしたのを咎める様に見えるのである。おなじ下座の神と考へられる様になつた水の神なども、馬を欲しがつて居た。其で、水に近よる馬を取らうとすると言ふ風に、推し当てに、神・精霊の心を考へた。此が、河童の馬を引きこまうとして、失敗した話の種である。さうして、人間に駆使せられる河伯と結びつけて、命乞ひに誓文し、贄を献り、秘法を知らせると言つた説明をつけたのである。
えんこ[#「えんこ」に傍点]・えんこう[#「えんこう」に傍点]は、猿猴から出たと言ふ考へは、誰しも信じ易い考へなるが為に、当分動す事は出来さうもない。だが、何の為にわざ/\さる[#「さる」に傍点]を避けて、耳遠い音を択んだのか、私には判断がつかない。或は井子《カハゴ》・かご[#「かご」に傍線]など言ふ類例から推すと、「井《ヰ》の子《コ》」から出たものが、聯想で、猿猴其まゝ「ゑんこう」とも発音したのかも知れない。
若し又、ゑんこう[#「ゑんこう」に傍点]を猿猴に違ひないとすれば、水を守る神猿を、やがて水の精霊と見て、猿即河童として、水界に多くゐる方をゑんこう[#「ゑんこう」に傍点]と言ひ別けたともとれる。
馬曳き猿を、河童の変形とする事は、猿とゑんこうと[#「ゑんこうと」に傍点]、関係の説明はついても、まだ/\出来ない。唯、此護符を貼つて、馬の災厄を除くことの出来るものとした原因だけは、わかつたと思ふ。馬術の家の伝へとても、やはり猿曳きや、馬曳き猿の信仰を述べた神人等のものと岐れる元は、一つであつたであらう。

     四 椀貸し淵

大和の水木直箭さんの作つた柳田先生の著作目録の中にも、一つの重要な項目になつてゐるものに「椀貸し塚」がある。私一己にとつては、非常な衝動を受けた研究である。今は、先生の論理の他の一面に、かうした考へ方もなり立ちさうだ、と言ふ点だけを述べて、重複を避けたいと思ふ。
椀貸し伝説の中には、河童を言はないものも多い。だが此は、塚の内部に、湧き水のある様な場処に移した話が、後には、唯の塚にまで、推し及したものと思ふ。私は、やはり水辺の洞穴や、淵などの地下水の通ひ路と考へられる処を言ふ方が、元の形に近いのではないかと思ふ。
膳椀何人前と書いた紙を、塚なり、洞なり、淵なりへ投げこんで置くと、其翌日は、必註文どほりの木具の数を揃へて、穴の口や、岩の上などに出してあつた。或時、借りた数だけ返さなかつた事があつて以来、貸してくれなくなつた、と言ふ結末が必、ついてゐる。此椀の貸し主は、誰とも言はぬ伝へが多い。中にはつきりしてゐるのは、龍宮といひ、河童・狐を言ふものである。狐でゞもなければ、そんな不思議は顕されないと考へたのは、水に縁のない山野の塚には、時々狐の出入りするのを見かけることのある為である。
今もあることだが、昔ほど激しかつた。一年に一度、数年に一度の客ぶるまひの為に、何十人前かの木具を揃へて蔵して居る家が多かつた。中には、一代一度など言ふのさへ、上流社会にはあつたものである。此話の、さう近代出来でない様子から見ても、小まへ[#「小まへ」に傍点]百姓などが、木具の膳椀で、客をする夢も見なかつた頃にも既にあつたらしいことは、鑑定がつく。其では、その前の漆塗りの木
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