か、昔ながらである。作家が批評家を見くだし無視しようとする気位は、まずありうちの正しくない態度であるが、前に言った「月毎評判記」の類では、評家自身は、作物の一附属としての批評を綴っているに過ぎないことになる。ほんとうの批評は、作物の中から作家の個性をとおしてにじみ出した主題を見つける処にある。この主題も、近代劇によく扱われている――而も菊池寛氏が、其を極めてむき出しな方法で示している――様なのを言うとする人々に同じたくない。主題を意識の上の事とするから、そう言った作物となって現れもし、読者たちにも極めて単純にして、聡明《そうめい》なるに似た印象を与えるのである。けれども主題と言うものは、人生及び個々の生命の事に絡んで、主として作家の気分にのしかかって来た問題――と見る事すら作家の意識にはない事が多い――なのである。其をとり出して具体化する事が、批評家のほんとうの為事《しごと》である。さすれば主題と言うものは、作物の上にたなびいていて、読者をしてむせっぽく、息苦しく、時としては、故知らぬ浮れ心をさえ誘う雲気《うんき》の様なものに譬《たと》える事も出来る。そうした揺曳《ようえい》に気のつく
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