も進めまい、と言う事に納得がいく事と思う。短歌の本質に逆行した、単に形式が57577の三十一字詩形である、と言う点ばかりの一致を持っただけの口語歌が、これ程すき嫌いの激しい詩形の中に、割りこもうとしているのは、おか目の私共にとっては、あまりに前の見え透いた寂しい努力だと思われる。
短歌が古典であると言う点から出て来る、尚一つの論理は、口語歌の存在を論理的基礎のないものにして了うであろう。其は、口語の音脚並びに其の統合律が、57を基本とする短歌とは調和しなくなっていることだ。どどいつ[#「どどいつ」に傍点]の様な芸謡の形式が、何の為に派生したのであろうか。文学上の形式として固定のまま守られて来た短歌も、若《も》し民謡として真に口語律の推移に任せて置いたとしたら、同系統の単詩形なる琉歌《りゅうか》同様の形になってしまって居たであろう。
友人伊波普猷氏は、「おもろ双紙」の中に、短歌様式から琉歌様式に展開した痕《あと》を示すものの見えることを教えてくれた。どどいつ[#「どどいつ」に傍点]の古い形とも見るべき江戸初期のなげぶし[#「なげぶし」に傍点]や室町時代の閑吟集の小唄類を見ても、口語律の変
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