古典としての短歌は、恋愛気分が約束として含まれていなければならなかったのである。
こう言う本質を持った短歌は、叙事詩としては、極めて不都合な条件を具えて居る訣《わけ》だ。抒情に帰せなければならない短歌を、叙事詩に展開さしょうと試みて、私は非常に醜い作物を作り作りした。そうしてとどのつまり、短歌の宿命に思い臻《いた》った。私は自分のあきらめを以て、人にも強いるのではない。石川啄木の改革も叙事の側に進んだのは、悉《ことごと》く失敗しているのである。唯啄木のことは、自然主義の唱えた「平凡」に注意を蒐《あつ》めた点にある。彼は平凡として見逃され勝ちの心の微動を捉えて、抒情詩の上に一領域を拓《ひら》いたのであった。併し其も窮極境になれば、万葉人にも、平安歌人にも既に一致するものがあったのである。唯、新様式の生活をとり入れたものに、稍《やや》新鮮味が見えるばかりだ。そうして、全体としての気分に統一が失われている。此才人も、短歌の本質を出ることは出来なかったのである。
古典なるが故に、稍変造せねば、新時代の生活はとり容れ難く、宿命的に纏綿《てんめん》している抒情の匂いの為に、叙事詩となることが出来ない。これでは短歌の寿命も知れて居る。戯曲への歩みよりが、恐らく近代の詩の本筋であろう。叙事詩は当来の詩の本流となるべきものである。此点に持つ短所の、長所として現れている短歌が、果して真の意味の生命を持ち続けるであろうか。抒情詩である短歌の今一つの欠陥は、理論を含む事が出来ない事だ。三井甲之は、既に久しく之を試みて、いまだに此点では、為出《しで》かさないで居る。詩歌として概念を嫌わないものはないが、短歌は、亦病的な程である。概念的叙述のみか、概念をとりこんでも、歌の微妙な脈絡はこわれ勝ちなのである。近代生活も、短歌としての匂いに燻《いぶ》して後、はじめて完全にとりこまれ、理論の絶対に避けられねばならぬ詩形が、更に幾許《いくばく》の生命をつぐ事が出来よう。
口語歌と自由小曲と
青山霞村・鳴海うらはる其他の歌人の長い努力を、私は決して同情と、感謝なくは眺めて居ない。併し其が、唯の同時代人としての好しみからに過ぎない程、此側の人々の努力は、詩の神から酬《むく》いられるに値して居ない様である。私のこれまでの評論を読んで下さった人々には、自ら口語歌の試みが、恐らく何時までも試み以上に一歩
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