。唯の閑人《ひまじん》の為事《しごと》なら、どうでもよい。文学に携る人々がこれでは、其作物が固定する。白状すれば、私なども僭越《せんえつ》ながら其発頭人の一人である。作物の上に長く煩いした学問の囚《とらわ》れから、やや逃げ道を見出したと思って、私のほっと息つく時に、若い人々の此態度を見るのである。けれども、此方面に於ける私の責任などは、極々軽微なものである。がら[#「がら」に傍点]が大きいだけに影響も大きかった茂吉の負担すべきものは、実に重い。童馬漫語類の与えた影響は、よい様で居て極めてわるいものである。でも其はなぞる[#「なぞる」に傍点]者がわるいので、茂吉のせいでは、ほんとうの処はないのである。
私は、気鋭の若人どもの間に行き渉《わた》って居る一種の固定した気持ち、語を換えて言えば、宗匠風な態度に、ぞっとさせられる。こうした人々の試みる短歌の批評が、分解批評や、統一のない啓蒙《けいもう》知識の誇示以上に出ないのは、尤《もっとも》である。私はそんな中から、可なりほんきな正しい態度の批評を、近頃聴くことが出来て、久しぶりの喜びを感じた位である。寧《むしろ》、素朴な意味の芸術批評でも試みればよい。其感銘を、認識不熟のままに分解した上に、学問の見てくれ[#「見てくれ」に傍点]が伴うからいけないのだ。私は、此等の人々に、ある期間先輩の作風をなぞった後、早く個性の方角を発見して、若きが故の賚《たまもの》なる鮮やかな感覚を自由に迸《ほとばし》らそう、となぜ努めないのか、と言いたい。併し、此は無理かも知れない。短歌の天寿は早、涅槃《ねはん》をそこに控えて居る。私は又、此等の人々から、印象批評でもよい、どうぞ分解しないで、其まま聞かして貰いたいと思う。何にしても、あまりに享楽者が多い。短詩国の日本に特有の、こうした「読者のない文学」と言った、状態から脱せない間は、清く厳かに澄みきった人々の気息までも、寝ぐさい息吹きが濁し勝ちなのである。

   短歌の宿命

何物も、生れ落ちると同時に、「ことほぎ」を浴びると共に、「のろい」を負って来ないものはない。短歌は、ほぼ飛鳥《あすか》朝の末に発生した。其が完成せられたのは、藤原の都の事と思われる。一体、日本の歌謡は、出発点は享楽者の手からではなかった。呪言《じゅごん》・片哥《かたうた》・叙事詩の三系統の神言が、専門家の口頭に伝承せられてい
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