から、一両年此方、段々ある落ちつき場処を求め獲《え》た様子を見ると、万葉の外殻を被《かぶ》って、叙景詩に行き止ったものは、まだしも、多少の生きた気魄を感じることは出来るが、外々の者は、皆一列になまぬるい拍子を喜ぶ様になって、甚しいのは、前にも言った新古今あたりに泥《なず》み寄ろうとして居る。而も「アララギ」自身すら、漸《ようや》く其拍子を替えて来たのに心づかない人はないだろうと思う。が、世間には存外、『十年』一冊の初めとしまい[#「しまい」に傍点]とに見える韻律の変化に気づかない人もある様である。此変化は、主として茂吉が主動になって居る様である。その洋行前、従来なるべく避けた、所謂「捨てや」なる助辞を、子規・左千夫の歌に対する親しみから、極めてすなおにとりこんでいた。アララギ派ではすべての人が、新しい発想法を見出して貰った程の喜びで、なぞって[#「なぞって」に傍点]行った。茂吉帰朝後、作る歌にも作る歌にも、すべての人が不満の意を示した。が、私は茂吉自身の心にひらめく暗示を、具体化しようとしてあせっているのだと思い、時としては、其が大分明らかに姿を見せかけて来るのを喜び眺めた。此が的をはずれて(?)、従来の持ち味及び、子規流の「とぼけ」からする、変態趣味の外皮を破って「家をいでてわが来し時に、渋谷川(?)卵の殻が流れ居にけり」の代表する一類の歌となって現れた。其後、茂吉は長い万葉調の論を書いた。畢竟《ひっきょう》其主張は、以前の、気魄強さに力点を置いたのから、転化して来たことを明らかにしている。恐らく内容の単純化から、更に進んで気分の斉正という処まで出て来たと言われよう。良寛から「才」をとりのけた様な物を、築き上げる過程にあるらしい。此を以て茂吉は尚、万葉調と称して居るが、実は既に茂吉調であって、万葉の八・十、或は十七・十八・十九・二十などとも違ったよい意味の後世風《おとつよぶり》であることは、疑うことの出来ぬ事実である。私は世間の万葉調なるものが、こうした新しい調子に出て、陣痛期を脱しようとするのかと考えている。
尚他の「アララギ」の人々で見ると、文明の、あの歌を鴎外で行ったような態度から、更に違った方角に向おうとして居るのに注意したい。「アララギ」同人中、最形の論理的に整うて居た文明の作風が、『ふゆくさ』以後、自ら語の正確さを疑い出したものか、此までどおり明確・端
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