おろす」に傍線]というてきる[#「きる」に傍線]と言はない処に縁起がある如く、はやす[#「はやす」に傍線]と言ふのも、伐る事なのです。はなす[#「はなす」に傍線]・はがす[#「はがす」に傍線](がは鼻濁音)などゝ一類の語で、分裂させる義で、ふゆ[#「ふゆ」に傍線]・ふやす[#「ふやす」に傍線]と同じく、霊魂の分裂を意味してゐるらしいのです。此は、万葉集の東歌から証拠になる三つばかりの例歌を挙げる事が出来ます。
囃すと宛て字するはやす[#「はやす」に傍線]は、常に、語原の栄やす[#「栄やす」に傍線]から来た一類と混同せられてゐます。山の木をはやし[#「はやし」に傍線]て来るといふ事は、神霊の寓る木を分割して来る事なのです。さうして、其を搬ぶ事も、其を屋敷に立てゝ祷る事も、皆、はやす[#「はやす」に傍線]といふ語の含む過程となるのです。大和猿楽其他の村々から、京の檀那衆なる寺社・貴族・武家に、この分霊木を搬んで来る曳き物の行列の器・声楽や、其を廻つての行進舞踊は勿論、檀那家の屋敷に立てゝの神事までをも込めて、はやす[#「はやす」に傍線]・はやし[#「はやし」に傍線]と称する様になつたのだと、言ふ事が出来ると思ひます。畢竟、室町・戦国以後、京都辺で称へた「松ばやし」は、家ほめ[#「家ほめ」に傍線]に来る能役者の、屋敷内での行事及び路次の道行きぶり(風流)を総称したものと言へまして、元、田楽法師の間にも此が行はれて居たのであります。其はやし[#「はやし」に傍線]の中心になる木は、何の木であつたか知れません。が、田楽|林《ハヤシ》・林田楽など言ふ語のあつた事は事実で、此「林」を「村」や「材」などゝするのは、誤写から出た考へ方であります。
此が、後世色々な分流を生んだ祇園囃しの起原です。元、祇園林を曳くに伴うた音楽・風流なる故の名でしたのが、夏祭りの曳き山・地車の、謂はゞ木遣り囃しと感ぜられる様になつたのでした。だから、祇園林を一方、八阪の神の林と感じた事さへあるのです。勿論、祇陀園林の訳語ではありません。此林田楽などは、恐らく、近江猿楽の人々が、田楽能の脇方として成長してゐた時代に、出来たものではないのでせうか。
此松ばやしは、猿楽能独立以後も、久しく、最大の行事とせられてゐたものではありますまいか。此事も恐らくは、翁が中心になつて、其宣命・語り・家ほめ[#「家ほめ」に傍線]が行はれてゐたものと考へられるのですが、唯今、其証拠と見るべきものはありません。が、唯暦法の考へを異にする事から生じた初春の前晩の行事が、尠くとも二つあります。即、社では、春日若宮祭りの一の松以下の行事、寺では興福寺の二月の薪能です。此等は皆翁や風流を伴つてゐました。其ばかりか、脇能も行はれてゐたのです。薪能は田楽の中門口と同じ意味のものであつたらしいし、御祭り[#「御祭り」に傍線]は全く、松ばやしの典型的のものであつたものと言へます。此場合に、松は、山からはやして来たものでなく、立ち木を以て、直ちに、神影向の木――事実にも影向の松と言つた――と見たのです。翁は御祭りから始まつたのではなく、其一の松行事が、翁の一つの古い姿だつた事を示すものです。二つながら、神影向の木或は分霊の木の信仰から出てゐます。薪能の起りは、恐らく翁一類の山人が、山から携へて来る山づと[#「山づと」に傍線]なる木を、門前に立てゝ行く処にあつたのであらうと思ふのです。かうして見ると、八瀬童子が献つた八瀬の黒木の由来も、山づと[#「山づと」に傍線]にして、分霊献上を意味する木なる事が、推測せられるではありませんか。此が更に、年木・竈木の起りになるのです。
一七 もどき[#「もどき」に傍線]の所作
私は、日本の演芸の大きな要素をなすものとして、もどき役[#「もどき役」に傍線]の意義を重く見たいと思ひます。近代の猿楽に宛てゝ見れば、狂言方に当るものです。だが、元々、神と精霊と――其々のつれ[#「つれ」に傍線]――の対立からなつてゐる処に、日本古代の神事演芸の単位があります。だからして方[#「して方」に傍線]に対して、単に、わき方[#「わき方」に傍線]――或はあど[#「あど」に傍線]と称する――に相当する者があつたゞけです。其中、わき方[#「わき方」に傍線]が分裂して、わき[#「わき」に傍線]及び狂言となつたのです。訣り易く言はうなら、もどき役[#「もどき役」に傍線]から脇・狂言が分化したといふ方がよい様であります。
もどき[#「もどき」に傍線]は田楽の上に栄えた役名で、今も、神楽の中には、ひよつとこ面[#「ひよつとこ面」に傍線]を被る役わり及び面自体の称へとなつて、残つてゐます。もどき役[#「もどき役」に傍線]は、後ほど、狂言方と一つのものと考へられて来ましたが、古くは、脇・狂言を綜合した役名でありました。私は前に猿楽のもどき[#「もどき」に傍線]的素地を言ひました。今、其を再説する機会に遇うた事を感じます。
もどく[#「もどく」に傍線]と言ふ動詞は、反対する・逆に出る・批難するなど言ふ用語例ばかりを持つものゝ様に考へられます。併し古くは、もつと広いものゝ様です。尠くとも、演芸史の上では、物まねする・説明する・代つて再説する・説き和げるなど言ふ義が、加はつて居る事が明らかです。「人のもどき負ふ」など言ふのも、自分で、赧い顔をせずに居られぬ様な事を再演して、ひやかされる処に、批難の義が出発しましたので、やはり「ものまねする」の意だつたのでせう。
田楽に於けるもどき[#「もどき」に傍線]は、猿楽役者の役処であつたらしく、のみならず、其他の先輩芸にも、もどき[#「もどき」に傍線]としてついてゐたものと思ひます。其中、最関係の深かつた田楽能から分離する機会を捉へたものが、猿楽能なる分派を開いたのでせう。ちようど、万歳太夫に附属する才蔵が、興行団を組織して歩く尾張・三河の海辺の神楽芸人に似た游離が行はれて、自立といふ程のきはやかな運動はなく、自然の中に、一派を立てたのと同様だと思ひます。此点は、世阿弥十六部集を読む人々に特に御注意を願はねばならぬ処で、田楽・曲舞などに対する穏かな理会のある態度は、かうして始めてわかるのです。呪師猿楽と並称せられた呪師の本芸が、田楽師の芸を成立させると同時に、猿楽は能と狂言とを重にうけ持つ様になつて行つたのです。だから、総括して、田楽法師と見られてゐる者の中にも、正確には、猿楽師も含まれてゐた事は考へてよいと思ひます。林田楽など言ひました曳き物も、ひよつとすれば、田楽師のもどき方[#「もどき方」に傍線]なる猿楽師(近江)の方から出たもので、松ばやし[#「松ばやし」に傍線]と一つ物と言ふ事はさしつかへないかも知れませぬ。
猿楽はもどき役[#「もどき役」に傍線]として、久しい歴史の記憶から、存外、脇方を重んじてゐるのかも知れません。柳営の慶賀に行はれた開口《カイコウ》は、脇方の為事で、能役者名誉の役目でありました。而も、田楽の方にも、此があつて、奈良の御祭りには行はれました。高野博士が採集して居られる比擬開口《モドキカイコウ》といふのが此です。だから、開口に、まじめなのと戯れたのと二つがあつた、と見る人もありさうですが、私はさうは思ひません。開口がもどき[#「もどき」に傍線]・脇方[#「脇方」に傍線]の役目だつたものです。恐らくは、猿楽の游離以前の姿を止めてゐるものと思はれます。
一八 翁のもどき[#「もどき」に傍線]
遠州や三州の北部山間に残つてゐる田楽や、其系統に属する念仏踊りや、唱門師風の舞踏の複合した神楽、花祭りの類の演出を見まして、もどき[#「もどき」に傍線]なる役の本義が、愈明らかになつて来た様に感じました。説明役であることもあり、をこつき役[#「をこつき役」に傍線]である場合もあり、脇役を意味する時もあるのでした。翁に絡んで出るもどき[#「もどき」に傍線]には、此等が皆備つてゐるのでした。まづ正面からもどき[#「もどき」に傍線]と言はれるのは、翁と共に出て、翁より一間《ヒトマ》遅れて――此が正しいのだが、今は同時に――文言を、稍大きな声でくり返す役の名になつてゐます。此は陰陽師又は修験者としての正式の姿をしてゐるのです。説明役と同時に脇方に当ります。此は重い役になつてゐる鬼の出場する場合にも出ます。此時は、鬼との問答を幾番かするのです。鬼に対するもどき[#「もどき」に傍線]は、脇役です。
翁の形式が幾通りにもくり返されます。ねぎ[#「ねぎ」に傍線]とか、なかと祓[#「なかと祓」に傍線]――中臣祓を行ふ役の意らしい――とか海道下り[#「海道下り」に傍線]とか称へてゐるのは、皆、翁の役を複演するもので、一種の異訳演出に過ぎないのです。即、翁を演ずる役者なるねぎ[#「ねぎ」に傍線]の、其の村に下つた由来と経歴とを語るのでした。だから、此は翁のもどき[#「もどき」に傍線]なのです。処が、翁にも此番にも、多くのをこつき[#「をこつき」に傍線]のもどき[#「もどき」に傍線]が出て、荒れ廻ります。而も、此外に必、翁に対して、今一つ、黒尉が出ます。此を三番叟といふ処もあり、しようじっきり[#「しようじっきり」に傍線]と言ふ地もあります。又猿楽とも言ひます事は、前に述べました。此は大抵、翁の為事を平俗化し、敷衍して説明する様な役です。が、其に特殊な演出を持つてゐます。前者の言ふ所を、異訳的に、ある事実におし宛てゝ説明する、と言ふ役まはりなのです。翁よりは早間で、滑稽で、世話に砕けたところがあり、大体にみだりがはしい傾向を持つたものです。
信州|新野《ニヒノ》の雪祭りに出るしようじっきり[#「しようじっきり」に傍線]と言ふ黒尉は、其上更に、もどき[#「もどき」に傍線]と言ふ役と其からさいほう[#「さいほう」に傍線]と称する役方とを派生してゐます。此は、多分才の男系統のものなる事を意味する役名なのでせうが、もどき[#「もどき」に傍線]の上に、更に、さいほう[#「さいほう」に傍線]を重ねてゐるなどは、どこまでもどき[#「もどき」に傍線]が重なるのか知れぬ程です。畢竟、古代の演芸には、一つの役毎に、一つ宛のもどき役[#「もどき役」に傍線]を伴ふ習慣があつたからなのです。
つい[#「つい」に傍点]此頃も、旧正月の観音の御縁日に、遠州奥山村(今は水窪町)の西浦所能《ニシウレシヨナウ》の田楽祭りを見学しました。まづ、近年私の見聞しました田楽の中では、断篇化はしてゐますが、演芸種目が田楽として古風を、最完全に近く、伝へてゐるものなることを知りました。
一九 もどき猿楽狂言
西浦《ニシウレ》田楽のとりわけ暗示に富んだ点は、他の地方の田楽・花祭り・神楽などよりも、もつともどき[#「もどき」に傍線]の豊富な点でありました。外々のは、もどき[#「もどき」に傍線]と言ふ名をすら忘れて、幾つかの重なりを行うてゐますが、こゝのは、勿論さうしたものもありますが、其上に、重要なものには、番毎にもどきの手[#「もどきの手」に傍線]といふのが、くり返されてゐることです。さうして更に、注意すべき事は、手とあることです。舞ひぶり――もつと適切に申しますと、踏みしづめのふり[#「踏みしづめのふり」に傍線]なのです――を主とするものなることが、察せられます。
大抵、まじめな一番がすむと、装束や持ち物も、稍、壊れた風で出て来て、前の舞を極めて早間にくり返し、世話式とでも謂つた風に舞ひ和らげ、おどけぶりを変へて、勿論、時間も早くきりあげて、引き込むのです。
此で考へると、もどき方[#「もどき方」に傍線]は大体、通訳風の役まはりにあるものと見てよさゝうです。其中から分化して、詞章の通俗的飜訳をするものに、猿楽旧来の用語を転用する様になつて行つたのではありますまいか。して見れば、言ひ立てを主とする翁のもどき[#「翁のもどき」に傍線]なる三番叟を、猿楽といふのも、理由のあつた事です。
此猿楽を専門とした猿楽能では、其役を脇方と分立させて、わかり易く狂言と称へてゐ、又をかし[#「をかし
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