立ちは、神の名のりの詞章の種姓明しの系統で、其に連れて、村・家の歴史を語る形式が、壊れたものです。こゝの翁も、脇方・狂言方らしい姿を見せてゐるのです。海道下りは遠くから来た神が、其道筋の出来事を語る辛苦物語から出てゐるもので、道行ぶりの古い形が其で、早く、神人流離の物語や、英雄征旅の史実の様になつたものです。其から出た道行ぶりが、記・紀にも既に発達してゐます。而も、此を所作に示す「歩きぶり」が、芸としての鑑賞の目的にさへなつてゐました。つまり「前わたり」の芸能なのです。此は元、見聞を語つて、世間的な知識を授ける詞章のあつたのが、変化して来たのであります。

     一一 ある言ひ立て

以上の夜話の後、私どもは、山崎楽堂さんの「申楽の翁」を聴かして貰ひました。其理会と愛執とから出て来る力には、うたれないでは居られませんでした。此続き話なども、大分、其影響をとり込んで来さうな気がいたします。其で、やがて、発表になるはずの、山崎さんの論旨を先ぐりした部分も出て来さうで、気がひけてなりません。併しまあ、此も芸能にはつきものゝもどき[#「もどき」に傍線]がしや/\り[#「しや/\り」に傍点]出たとでも思うて戴きます。
こんな事を申し上げるのも、外ではありません。学問の研究の由つて来たる筋道と、発表の順序とだけは、厳重にはつきりさせて置くと言ふ、礼儀を思ふからであります。私どものしてゐる民俗学の発生的見地は、学者自身の研究発表の上にも、当然、持せられるべきはずであります。内外の事情の交錯発生する過程を明らかにすると言ふ事は、研究方法を厳しく整へるよりも、もつと/\重大な事なのです。
殊に「申楽の翁」の如き、まだ記録を公にしない研究から、多分論理をひき続けて行く私の論文の様な場合には、此用意が大事だと感じました。
如何様な価値と分量とを持つた論文にしても、其基礎の幾分をなしてゐる、未発表の研究を圧倒して了ふ権利はない訣なのです。私は常に、此だけは、新しい実感の学問の学徒としての、光明に充ちた態度と心得てゐるのであります。

     一二 春のまれびと[#「まれびと」に傍線]

柳田国男先生の「雪国の春」は、雪間の猫柳の輝く様な装ひを凝して、出ました。私どもにとつては、真に、春のまれびと[#「春のまれびと」に傍線]の新しいことぶれ[#「ことぶれ」に傍線]の様な気がします。殊に身一つにとつて、はれがましい程の光栄に、自らみすぼらしさの顧みられるのは、春の鬼[#「春の鬼」に傍線]に関する愚かな仮説が、先生によつて、見かはすばかり立派に育てあげられてゐた事であります。此、真に、世の師弟の道を説く者に、絶好の例話として提供せらるべき事実であります。実の処、をこがましくも、春の鬼・常世《トコヨ》のまれびと[#「まれびと」に傍線]・ことぶれの神[#「ことぶれの神」に傍線]を説いてゐる私の考へも、曾て公にせられた先生の理論から、ひき出して来たものでありました。南島紀行の「海南小記」(東京朝日発表、後に大岡山書店から単行)の中に、つゝましやかに、言を幽かにして書きこんで置かれた八重山の神々の話が、其であります。学説と言ふものは、実にかくの如く相交錯するものでありまして、私が山崎さんの研究の一部たりとも、冒認する事を気にやんでゐる衷情も、お察しがつきませう。
今から四年前(大正十三年)の初春でした。正月の東京朝日新聞が幾日か引き続いて、諸国正月行事の投書を発表した事がありました。其中に、
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なもみ剥《ハ》げたか。はげたかよ
あづき煮えたか。にえたかよ
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こんな文言を唱へて家々に躍り込んで来る、東北の春のまれびと[#「春のまれびと」に傍線]に関する報告がまじつてゐました。私は驚きました。先生の論理を馬糞紙のめがふおん[#「めがふおん」に傍線]にかけた様な、私の沖縄のまれびと神[#「まれびと神」に傍線]の仮説に、ぴつたりしてゐるではありませんか。雪に埋れた東北の村々には、まだ、こんな姿の春のまれびと[#「春のまれびと」に傍線]が残つてゐるのだ。年神にも福神にも、乃至は鬼にさへなりきらずにゐる、畏と敬と両方面から仰がれてゐる異形身の霊物《モノ》があつたのだ。こんな事を痛感しました。私はやがて、其なもみ[#「なもみ」に傍線]の有無を問うて来る妖怪の為事が、古い日本の村々にも行はれてゐた、微かな証拠に思ひ到りました。かせ[#「かせ」に傍線]・ものもらひ[#「ものもらひ」に傍線]に関する語原と信仰とが其であります。此事は、其後、多分、二度目の洋行から戻られたばかりの柳田先生に申しあげたはずであります。
「雪国の春」を拝見すると、殆ど春のまれびと[#「春のまれびと」に傍線]及び一人称発想の文学の発生と言ふ二つに、焦点を据ゑられてゐる様であります。殊に「真澄遊覧記を読む」の章の如きは、かの「なもみはげたか」の妖怪の百数十年前の状態を復元する事に、主力を集めてゐられます。馬糞紙のらつぱ[#「らつぱ」に傍線]は、更に大きくして光彩陸離たる姿と、清《スヾ》やかに鋭い声を発する舶来の拡声器を得た訣なのです。

     一三 雪の鬼

真澄の昔も、今の世も、雪間の村々ではなもみ[#「なもみ」に傍線]を火だこ[#「火だこ」に傍線]と考へてゐる事は、明らかです。が、火だこ[#「火だこ」に傍線]を生ずる様な懶け者・かひ性なしを懲らしめる為とする信仰は、後の姿らしいのです。
かせとり[#「かせとり」に傍線]・かさとり[#「かさとり」に傍線]とも此を言ふ様ですが、此称へでは、全国的に春のほかひゞと[#「春のほかひゞと」に傍線]の意味に用ゐてゐます。かせ[#「かせ」に傍線]はこせ[#「こせ」に傍線]などゝ通じて、やがて又|瘡《カサ》・くさ[#「くさ」に傍線]などゝも同根の皮膚病の汎称です。此をとりに来るのは、人や田畠の悪疫を駆除する事になるのです。なもみはぎ[#「なもみはぎ」に傍線]・かせとり[#「かせとり」に傍線]の文言は形式化したものでありますが、春のまれびと[#「春のまれびと」に傍線]の行つた神事のなごりなる事だけは、明らかになつて居ました。
ものもらひ[#「ものもらひ」に傍線]などもさうです。恐らく、春のほかひゞと[#「春のほかひゞと」に傍線]が此に関係して居つた為の名でせう。ばら/\に分布してゐる、此目瘡の方言まろと[#「まろと」に傍線]なる称へは、祝言・ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]がまだ、原信仰を存して、まらうど[#「まらうど」に傍線]のするものとした時代から、ほかひ[#「ほかひ」に傍線](乞士)・もの貰ひの職となつた頃まで、引き続いてゐた事を見せてゐる様に思ひます。即、まれびと瘡[#「まれびと瘡」に傍線]が、なもみ[#「なもみ」に傍線]の一種であつたらしい、と言ふ仮説を持つてゐたのであります。なもみ瘡[#「なもみ瘡」に傍線]が、薬草の※[#「台/木」、第4水準2−14−45]耳子《ヲナモミ》・めなもみ[#「めなもみ」に傍線]などに関係のある事だけは、多少想像してもよいと思ひます。此草、支那に於てすら「羊負来」と呼ばれる通り、異郷の草種だつたのです。
かう言ふ風に考へられてゐる、私の疎かな組織に組み入れた春の妖怪は、沖縄にも、旧日本にもあつたのです。
寺々の夜叉神も、陰陽師・唱門師から、地神経を弾いた盲僧・田楽法師の徒に到るまで、家内・田園の害物・疾病・悪事を叱り除ける唱へ言を伝へてゐたのも、皆、此まれびと[#「まれびと」に傍線]」としての本来の俤を留めてゐたのです。
私は数年来、知らぬ奥在所の人々からは、気の知れぬと思はれるばかり、春の初めを幾度か、三・遠二州の山間に暮しました。其処で見た田楽や田楽系統の神事舞の中にも、やはり正式には、家内・田園の凶悪を叱る言ひ立てを見出しました。此が大抵、翁或は其変形したものゝ発する祭文或は宣命といふものになつて居りました。

     一四 菩薩練道

牛祭りの祭文を見たばかりでは、こんな放漫な詞章がと驚かれる事ですが、邪悪を除却する宣命の所謂ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]のみだりがはしきに趨く径路を知つて居れば、不思議はない事です。あれは、人身及び屋敷の垣内・垣外の庶物の中に棲む精霊に宣下し、慴伏せしめる詞なのです。
大昔には、海の彼方の常世の国から来るまれびと[#「まれびと」に傍線]の為事であつたのが、後には、地霊の代表者なる山の神の為事になり、更に山の神としての資格に於ける地主神の役目になつたものでした。さうして、其地主神が、山の鬼から天狗と言ふ形を分化し、天部の護法神から諸菩薩・夜叉・羅刹神に変化して行く一方に、村との関係を血筋で考へた方面には、老翁又は尉と姥の形が固定してまゐりました。
だから、此等の山の神の姿に扮する山の神人たちの、宣命・告白を目的とした群行の中心が鬼であり、翁であり、又変じて、唯の神人の尉殿、或は乞士としての太夫であつたのは、当然であります。翁及び翁の分化した役人が、此宣命を主とする理由は訣りませう。仮りに翁の為事を分けて見ますと、
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語り
宣命
家・村ほめ
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此三つになります。さうして、其中心は、勿論宣命にあるのです。でも、此三つは皆一つ宣命から分化した姿に過ぎないのです。

     一五 翁の宣命

宣命と名のつく物、宣命としての神事の順番に陳べられるものは、其詞章がたとひ、埒もない子守り唄の様に壊れて了うてゐるのでも、庶物の精霊に対する効果は、恐ろしい鎮圧の威力を持つものでした。中世以後、祝詞・祭文以外に、宣命といふ種類が、陰陽師流の神道家の間に行はれてゐました。続日本紀以降の天子の宣命と、外形は違つてゐて、本質を一つにするものでした。私の考へでは、此宮廷の宣命が、古代ののりと[#「のりと」に傍線]の原形を正しく伝へてゐるものなのです。神の宣命なるのりと[#「のりと」に傍線]を人神の天子ののりと[#「のりと」に傍線]なる宣命としたゞけの事です。常世神ののりと[#「のりと」に傍線]におきましては、神自身及び精霊の来歴・種姓を明らかにして、相互の過去の誓約を新たに想起せしめる事が、主になつてゐました。此精霊服従の誓約の本縁を言ふ物語が、呪詞でもあり、叙事詩でもあつた姿の、最古ののりと[#「のりと」に傍線]なのです。其が岐れて、呪詞の方は、神主ののりと[#「のりと」に傍線]と固定し、叙事詩の側は、語部《カタリベ》の物語となつて行つたのです。だから、呪詞を宣する神の姿をとる者の唱へる文言が、語りをも宣命をも備へてゐる理由はわかります。「家・村ほめ」の方は、呪詞が更に、鎮護詞《イハヒゴト》化した時代に発達したものなのです。広く言へば、ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]と称すべきもので、多くは山人発生以後の職分です。
翁の語り[#「翁の語り」に傍線]は次第に、教訓や諷諭に傾いて来ましたが、尚、語りの中にすら、宣命式の効果は含まれてゐたのです。家・村ほめの形にも、勿論、土地鎮静の義あることは言ふまでもありません。

     一六 松ばやし

高野博士は、昔から鏡板の松を以て、奈良の御《オン》祭の中心になる――寧、田楽の中門口の如く、出発点として重要な――一《イチ》の松をうつしたものだ、とせられてゐました。当時、微かながら「標の山」の考へを出してゐた私の意見と根本に於て、暗合してゐましたので、一も二もなく賛成を感じてゐました。
処が、近頃の私は、もつと細かく考へて見る必要を感じ出して居ります。其は、鏡板の松が松ばやしの松と一つ物だといふ事です。謂はゞ一の松の更に分裂した形と見るのであります。松をはやす[#「はやす」に傍線]といふ事が、赤松氏・松平氏を囃す[#「囃す」に傍点]などゝ言ふ合理解を伴ふやうになつたのは、大和猿楽の擁護者が固定しましてからです。初春の為に、山の松の木の枝がおろされて来る事は、今もある事で、松迎へといふ行事は、いづれの山間でも、年の暮れの敬虔な慣例として守られて居ます。おろす[#「
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