養はれて、末には英雄神となる物語を語つたのが、ほたかの本地[#「ほたかの本地」に傍線]として、末代の正本には、物臭太郎と言ふ流離の貴族の立身譚に変化して行きました。信濃に、安曇氏を称する海人部の入つたのは、かうした径路を通つたのでありませう。
山のことほぎ[#「山のことほぎ」に傍線]・海のほかひ[#「海のほかひ」に傍線]が段々合体して来ても、名目はさすがに存してゐました。山人の団体として、遊行神人の生活法をとつた者は、ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]であり、海人の巡遊伶人団は、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]と言うたらしいのです。其が後には、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]がくゞつ[#「くゞつ」に傍線]と称し、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]にしてほかひ[#「ほかひ」に傍線]と言はれたらしい混乱が見えます。ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]の持つ物容れは、山の木のまげ物であつて、其旅行器をほかひ[#「ほかひ」に傍線]と称へました。くゞつ[#「くゞつ」に傍線]は恐らく、呪詞の神こゝとむすび[#「こゝとむすび」に傍線]の名に関係があるらしく、其携へた、草を編んだ物容れの名が、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]と言はれるまでに、其旅行器が、国々の人の目に止る機会が多かつたのです。其程浮浪の布教生活を続けたのです。山人も、ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]の一派であり、――傀儡子女《クヾツメ》は、海人の岐れであるらしい。――其が山舞をする事で、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]から分類せられ、海人からくゞつ[#「くゞつ」に傍線]の生活を棄てゝ、山舞をする様になつても尚、くゞつ[#「くゞつ」に傍線]と称せられたのは、遊女はくゞつ[#「くゞつ」に傍線]とし、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]を祝言乞食者と考へた為でありませう。

     九 山伏し

山舞を伝承して居る村の中には、思ひの外に深い山中に住んだ者が多かつたのです。そして歳暮・初春其他の行事に、村里へ降つて、山のことほぎ[#「山のことほぎ」に傍線]を行ひに来ます。此が「隠れ里」の伝説の起原であつて、さうした生活法を受けつぐ事に、不思議も、屈托も感じない者が多かつたのです。隠れ里と称する人居は、皆山人としての祝言職を持つて居たのです。此山人の中、飛鳥末から奈良初めへかけて、民間に行はれた道教式作法と、仏教風の教義の断篇を知つて、変態な神道を、まづ開いたのは修験道で、此は全く、山の神人から、苦行生活を第一義にとつて進んだのです。だから、里人に信仰を与へるよりも、まづ、祓への変形なる懺悔・禁欲の生活に向はしめました。即、行力を鍛へて、験方《ゲンパウ》の呪術を得ると言ふ主旨になります。だから、修験道は、長期の隔離生活に堪へて、山の神自体としての力を保有しようとした山人の生活に、小乗式の苦行の理想と、人間身を解脱して神仙となるとする道教の理想とをとり込んだに過ぎません。後々までも、寺の験方の形式をとり去ると、自覚者の変改した神道の姿が現れるのです。垢離は禊ぎであり、懺悔は、山祇の好む秘密告白と祓へとの一分岐です。禅定・精進《サウジ》は、山籠りの物忌みで、成年授戒・神人資格享受の前提です。
御嶽精進を経て、始めて男となると言ふ信仰は、近代に始まつた事ではない様で、山地に居させ、禁欲・苦役の後、成年戒を授けた昔の村里の規約が、形を変へて入つて来てゐます。男だけの山籠りで、女子は結界厳重な事も、女人禁制の寺方を学んだのではなく、固有の秘密結社の姿なのでした。山の神・山人がおに[#「おに」に傍線]と感じられて来たのに対して、天狗を想像する様になりました。古代のおに[#「おに」に傍線]は、後世の悪鬼羅刹などでなく、巨人と言ふだけの意義でした。大方、赤また[#「赤また」に傍線]・黒また[#「黒また」に傍線]など言ふ先島《サキジマ》のまれびと[#「まれびと」に傍線]と、似た扮装をしたものであつたのでせう。田楽には、鬼や天狗がつきものになつてゐたらしいのですが、猿楽では、翁の柔和な姿になつてゐます。だが、「谷行《タニカウ》」の様な、山入りの生活を明らかに見せるものがあり、又、天狗も「第六天」や「鞍馬天狗」や「善界《ゼガイ》」など、数へきれない程あるでせう。田楽には天狗の印象があるだけで、今残つた種目からは窺はれません。其に比べて数から言へば、猿楽は、天狗舞を一分科とするほどです。先達・新達の区別も、宿老《トネ》と若者との関係です。山人生活のかたみ[#「かたみ」に傍線]だと言へないかも知れませんが、ともかくも考へに置かねばなりませぬ。
天狗が出産のあら血を嫌ふ事は、柳田先生が、古く「天狗、山の神」説に述べられました。山の神、或は山人生活の行儀・禁忌などが、その儘伝つて居るではありませんか。だから、修験道は、山人の間に※[#「酉+慍のつくり」、第3水準1−92−88]醸せられた、自覚神道だ、と思ひます。此為に山人も、末は色々に岐れて行つてゐます。
山村に神事芸が発達すると共に、本来の姿で生活してゐる海人の村にも、偶人劇や歌詠が育つてゐました。さうしたものが、祭りの日に行はれてゐる中に、段々演芸化してまゐります。そして、神事能の外、種目が多くなつて行きます。中には遊行伶人団となつたものも、元より、早くにあつた事は考へられます。宮廷の神楽は、海人部出の物なので、海人部の偶人に当るものが、宮廷では、狂言方の才《サイ》の男《ヲ》です。其以前からあつた神遊びには、人形を用ゐなかつたから、人にして人形身になる「才[#(ノ)]男[#(ノ)]態」なるものを生んだのです。――社々のせいなう[#「せいなう」に傍線]・さいのを[#「さいのを」に傍線]は大抵、偶人だつた様です。――山人の神事にも人形のまじつた痕はありません。山人は、宮廷・神社の祭りに出れば、脇方に廻つたものなのでせうから、才の男なども、山人が勤めたのではないか、と思はれる処が、尠からず見えます。人長に対する才の男の位置は、もどき[#「もどき」に傍線]であり、其態は、狂言だつた様で、常世の神人と山の神人との関係にある様です。才の男系統の猿楽が、翁には翁・人長・黒尉・才の男と言つた形になつて来かゝつてゐます。此は神と精霊との関係の混乱し易い為です。
山村の印象と見るべきものは、山彦[#「山彦」に傍線]・こだま[#「こだま」に傍線]など言ふ、口まね[#「口まね」に傍線]・口ごたへ[#「口ごたへ」に傍線]をする精霊の存在を信じた風の起原です。山人の芸の中に、さうした猿楽式なもどき[#「もどき」に傍線]が発達してゐた為、山人の木霊《コダマ》を一つにしたもので、やはり、一つの芸術の現実化して考へられたものでせう。才の男のする「早歌」のかけあひなども、やはりもどき芸[#「もどき芸」に傍線]なのです。
猿楽能は山人舞の伝統を引くもので、社寺の楽舞に触れて変化し、民間の雑楽に感染してとり込み、成立後の姿からは、元の出処が知れぬ位に、変つてしまひました。楽[#「楽」に白丸傍点]と言ふ字のつくのは、雑楽の義で、田楽は其であり、舞[#「舞」に白丸傍点]の方が一段上で、正舞系統を意味するものらしい、と、かう言ふ仮説は立たないでせうか。だから、寺方出の舞のはで[#「はで」に傍線]なものは、皆、曲舞と言はれてゐますが、猿楽は、曲舞とも見られなかつたのです。其点でも、曲舞出の幸若舞よりも低く見られたのです。社寺から受ける待遇も、極めて低いものだつたでせう。伶人・楽人などゝは比べられなかつたものと思はれます。

     一〇 翁の語り

三河の北の山間、南、北|設楽《シタラ》郡を中心に、境を接した南信州の一部分は、私も歩いて来て、此地方にある田楽の、輪廓だけは、思ひ浮べる事が出来ます。此は、北遠州天龍沿ひの山間にもある事は、早川孝太郎さんの採訪によつて知れました。種目が可なり多く具はつて居て、田楽と称する土地の外は「花祭り」と称へてゐて、明らかに田楽の特質の一部を保つてゐます。花祭りは、鎮花祭の踊りから出た念仏踊りが、田楽と習合した元の信仰を残してゐるので、花祭りといふのは、稲の花がよく咲いて、みいる様子を、祝福する処から言ふのであります。春の花が早く散ると、田のみのり[#「みのり」に傍線]の悪い兆と見、人の身に譬喩して見ると、悪病流行の前ぶれと考へたのであります。春の祭りに花を祝福した行事が、春夏の交叉する頃にも、一層激しく行はれ、鎮花祭――行疫神や、害虫や、悪風を誘導して祓ひ出す――が、人間の精霊を退散させる事によつて、凶事は除かれるものとする念仏踊りを生み、其が教義づけられて、念仏宗になつたものゝ様です。然し、花鎮めと言ふ事は、忘れませんでした。
田楽の中にも、念仏踊り其儘、花鎮め行事を名のるものが残つてゐます。其が、此花祭りです。花に関しては、花の唱文・花の言ひ立て・花舞ひなどをする処もありますが、大して問題にして居ない様です。畢竟、かうした田楽を「花祭り」とか「花踊り」とか言つてゐたまゝを、承けついで来たのでせう。桜町中納言が、泰山府君に花の命乞ひをした伝説なども、田楽・念仏系統の伝へなのでせう。此祭りに、舞場《マヒバ》に宛てられた屋敷は一村の代表で、祭りの効果は、村全体に及ぶと考へてゐるのです。此は、殆ど、反閇《ヘンバイ》及び踏み鎮めの舞ばかりを、幾組も作つてゐるのです。が、其中に「鬼舞」と、「翁の言ひ立て」とが、田楽の古い姿を残してゐる様でした。春祭りの鬼は、節分の追儺・修正会と一つ形式に見られてゐますが、明らかに、祝福に来る山の神です。だから、鬼は退散させられないで、反閇を踏む事になつてゐて、此辺の演出は正しいものなのです。即、春祭りに、山人の祝福に来る形です。
翁は、どの村々にも必、ある様で、田楽祭りと称する村では、勿論、必あります。其語りにも色々ある様でありますが、主なものは、生ひ立ちの物語りと海道下りとである様です。此翁の語りの事を、猿楽と言ふのも、一般の事の様です。設楽郡の山地に入り初めの鳳来寺には、田楽の他に、地狂言と言ふものがあつて、其を猿楽と称へたらしい証拠があります。先年までしたのは、唯の芝居でしたが、其始まりのものは、三番叟であつて、此を特別の演出物としてゐます。此地狂言は、古くは、猿楽能に近いものを演じた様ですが、近代では、歌舞妓芝居より外はやりませんでした。此猿楽なる地狂言が、三番叟だけは保存してゐたと言ふのは、江戸芝居と一つで、翁が猿楽の目じるしだつたからであります。三番叟を主としたのは、猿楽の中の猿楽なる狂言だからでせう。豊根村の翁には、もどき[#「もどき」に傍線]がついて出て、文句を大きな声でくり返しました。鳳来寺の地狂言では、後に引いた幕の陰に、大勢の人が隠れてゐて、三番叟の詞をくり返して、囃したさうです。
花祭りの翁でも、役人は一人ではありません。翁の外に、松風丸(又は松風・松かげ)と言ふ女面があり、三番があるのが普通の様です。翁の言ひ立ての後で、三番叟(信州新野では、しようじっきり[#「しようじっきり」に傍線])が出て、翁のおどけ文句以上に、狂言を述べる。松風は所作はわからぬが、千歳の若役を若女形でするので、田楽らしい為方です。田楽には、女も役人に加はつてゐました。だから、千歳役も、田楽の猿楽では、女千歳であつた事があるのでせう。其が仮面になつたのかも知れませぬ。翁の語りの中に「松風のじぶんな、寒《サンブ》やかりける事よな」又は「翁松かげにかんざられ、寒や悲しや(?)」かう言ふ文句があるけれど、前後の関係の推測出来るやうに、筋立つても居ません。かうした翁の役は、此田楽でも三人なのです。翁の生ひ立ちの語りは、其誕生から、其に伴ふ母の述懐を述べて、自身の醜さを誇張して笑はせます。其から、今まで生きてゐた間に、滄桑の変を幾度も見た事を言ひまして、翁の壻入りの話になるのです。壻になつた時の準備に、色々な事を習うて、種々の失敗をする、おもしろい「早物語」らしい処があります。海道下りは、京へ上る道や入洛してからの物語で、其間に、みだらな笑ひを誘ふ部分を交へてゐます。
生ひ
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング