傍線]は、あなた様であつて、他人でない筈だ。仰せのやまびと[#「やまびと」に傍線]は、外にありとも思はれぬ、とおどけを交へた頌歌である。此歌の表現を促したのは
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あしびきの山行きしかば、山人《ヤマビト》の 我に得しめし山づと[#「山づと」に傍線]ぞ。これ(元正天皇――同巻二十)
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と言ふ御製であつて、此も、山人と言ふ語の重つた幻影から出た、愉悦の情が見えて居ます。だが、其よりも、注意すべきは、山づと[#「山づと」に傍線]と言ふ語です。家づと[#「家づと」に傍線]は、義が反対になつてゐます。山づと[#「山づと」に傍線]・浜づと[#「浜づと」に傍線]などが、元の用語例です。山・浜の贈り物の容れ物の義で、山から来る人のくれるのが、山づと[#「山づと」に傍線]であり、其が、山帰りのみやげの包みの義にもなる。元は、山人が里へ持つて来てくれる、聖なる山の物でした。此は、後に言ふ山姥にも絡んだ事実で、山草・木の枝・寄生木の類から、山の柔い木を削つた杖、其短い形のけづり花などであつたらしく、山かづら・羊歯の葉・寄生《ホヨ》・野老《トコロ》・山藍・葵・榧《カヘ》・山桑《ツミ》などの類に、時代による交替があるのでせう。
柳田先生の杓子の研究を、此方に借用して考へると、此亦、山人の鎮魂の為の木ひさご[#「木ひさご」に傍線]でした。神代記のくひさもちの神[#「くひさもちの神」に傍線]は、なり瓢の神でなく、木を刳つた、古代の木杓子《クヒサ》の霊の名であつた、と言はれませう。此、くひさ[#「くひさ」に傍線]と言はれたと思はれる杓子は、いつ頃からの山づとかは知れませぬが、存外、古代からあつたものらしいのです。かうした山人は、初春の前夜のふゆまつり[#「ふゆまつり」に傍線]の行事なる、鎮魂式の夜に来ます。即、厳冬に来たのです。若宮祭りの翁の意義が、其処に窺はれる様に思はれます。
若宮祭りの翁は、高い神――続教訓抄など――と言ふより、ことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]の山の神で、春日の社殿及び若宮の神の鎮魂を行ふところに、古義があつたのでせう。夜叉神のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]や、菩薩練道が寺に行はれたのも、高位の者に誓ふ風からです。社の神にも誓ひ[#「誓ひ」に傍線]・いはひ[#「いはひ」に傍線]に、ことほぎの翁[#「ことほぎの翁」に傍線]が参上する事のあるのは、不思議ではない。猿楽家の「松ばやし」も亦、暮の中に行はれるのが、古風であつた様ですが、此から翁が出たとは言へますまい。唯、「湛《タヽ》へ木」の行事を行ふだけです。一つ松の行事は、翁の一節を存するもので、其に続く、踏歌式を含んだことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]が、消えて了うたのです。謂はゞ、一種の五節千歳が、踏歌から出たのは、武家時代の好みだつたのでせう。
雅楽にも「若」を舞はせる為に、本手の舞を童舞に変化させてゐるのがあります。猿楽能の翁は、鎮魂の為の山人の来臨で、三人の尉は、一種の群行を意味するものでせう。此事は更に説きます。
翁の文句の「ところ千代まで」と言ふのは、野老にかけた、村・国の土地鎮めの語で、かうした文句の少いのは、替へ文句が多くなつた為です。さうして、春祭りの田打ちの詞らしい、生み殖し[#「生み殖し」に傍線]の呪文が這入つて居るのは、翁が初春を主として、暮の鎮魂式から遠のいた為でせう。だが、春田打ちは、鎮魂と共に一続きの行事ですから、山人としての猿楽の翁も、初春に傾く理由はあるのです。仮に、猿楽の翁の原形の模型を作つて見ませう。
翁が出て、いはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]を奏する。此は家の主長を寿するのです。其後に、反閇《ヘンバイ》の千歳《センザイ》が出て、詠じながら踏み踊る。殿舎を鎮めるのです。其次に、黒尉《クロジヨウ》の三番叟が出て、翁の呪詞や、千歳の所作に対して、滑稽を交へながら、通訳式の動作をする。其が村の生業の祝福にもなる。此くり返しが、二|尉《ジヨウ》の意を平明化すると共に、ふりごと[#「ふりごと」に傍線]分子を増して来ます。さうして、わりに難解な処を徹底させ、儀式的な処を平凡化して、村落生活にも関係を深くするのでせう。猿楽能の座の村が、大和では、多く岡或は山に拠つてゐました。殊に外山《トビ》の如きは、山人を思はせる地勢です。
松ばやし[#「松ばやし」に傍線]の如きも、春の門松――元は歳神迎への招《ヲ》ぎ代《シロ》の木であつた――を伐り放して来る行事でした。はやし[#「はやし」に傍線]は、伐ると言ふ語に縁起を祝ふので、やはり、山人の山づと贈りに近い行事です。かうした記憶が、寺の奴隷の、地主神・夜叉神等の子孫とせられた風に習うて、奈良西部の大寺のことほぎ役[#「ことほぎ役」に傍線]や、群行の異風行列を奉仕するやうになつたものと見えます。此は、高野博士の観世・金剛などの称号が、菩薩練道の面を蒙る家筋を表したものだ、と言ふ卓見に、微かな裏書きをつける事になるのです。

     七 山姥

猿楽で、山姥が重んぜられるのも、先進芸からの影響もある様ですが、山人としての方面からも考へねばならぬでせう。山姥は、山の神の巫女で、うば[#「うば」に傍線]は姥と感じますが、此は、巫女の職分から言ふ名で、小母と通じるものです。最初は、神を抱き守りする役で、其が、後には、其神の妻ともなるものをいふのです。其巫女の、年高く生きてゐるのが多い事実から、うば[#「うば」に傍線]を老年の女と感じる様になつたらしいのです。うば[#「うば」に傍線]を唯の老媼の義に考へたのも古くからの事だが、神さびた生活をする女性の意として、拡がつて来たのでせう。此山神のうば[#「うば」に傍線]として指定せられた女は、村をはなれた山野に住まねばならなかつた。人身御供の白羽の矢の話には、かうした印象もあるに違ひない。たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]同様の生活をして、冬の鎮魂にまた恐らくは、春祭りにも、里に臨んだものと思ふ。其山姥及び山人の出て来る鎮魂の場《ニハ》が、いち[#「いち」に傍線]と言はれるので、我が国の「市」の古義なのです。此夜、山姥――及び山人――の来て舞ふのが、山姥の舞で、段々、村の中にも、此を伝へるものが出来る様になつたでせう。此は山姥の鎮魂の舞が、山姥を野山に出さぬ世になつて、仮装の山姥の手に移つた為でせう。
山姥といふ称呼から、山にゐる女性と考へ、山人を、蛮人又は鬼・天狗などに近づけて想像する処から、此をも山の女怪と信じる様になりました。其村の冬祭りに来た行事が形式化し、竟に型をも行はぬ様になつて、伝説化して、名と断篇の説話ばかりあつて、実のない時代になつて、冬の行事であつたゞけに、冬の夜話の題材に上る様になつたので、かうした、人であつて、又、魑魅の族らしい者を考へ出したのでせう。山姥の姥[#「姥」に白丸傍点]に対して、山男[#「山男」に傍線]・山人は又、山をぢ[#「山をぢ」に傍線]又は、山わる[#「山わる」に傍線]と称へる様になりました。山姥の洗濯日といふのは、山の井に現れて、山姥が禊ぎをする日だつたのでせう。市日に山姥の来て、大食をした話や、小袋に限りなく物を容れて帰つた伝説などがあるのは、鎮魂の夜の山づと[#「山づと」に傍線]と取り易へて、里の品物、食料などを多く持ち還つたからでせう。其に、其容れ物の、一種異様な物であつた印象がくつゝいたのだらうと思ひます。
古代には、市[#「市」に白丸傍点]といはれる処は、大抵山近い処にありました。磯城長尾市[#(ノ)]宿禰と言ふ家は、長い丘《ヲ》の末に、市があつた為でせう。此が、穴師の山人の初めと言はれる人です。布留の市もさうで、大倭の社に関係があります。河内の餌香《ヱガ》の市などは、やゝ山遠くなつてゐます。これなどは、商行為としての交易場だつたのでせう。「うまさけ餌香の市に、価もてかはず(顕宗紀・室寿詞)」などあるのも、市が物々交換を行うた時代を見せてゐるのです。山祇系に大市姫があり、伝説では、山姥の名にもなつてゐます。此はみな、市と冬祭りと山姥との聯絡を見せてゐるのです。此交易の行事が、祭りの日の鷽換《ウソカ》へ行事や、舞人の装身具・作り山などについた物を奪ひ合ふ式にもなつて行つたのです。
足柄明神の神遊びは、東遊《アヅマアソ》びの基礎になつた様です。此神遊びを舞ふ巫女が、足柄の山姥です。神を育てるものとの信仰が残つて、坂田金時の母だとされてゐます。其に、此山姥の舞は、代表的の「山舞」とせられて、東遊びと共に、畿内の大社にも行はれました。山舞を演ずる「座」や「村」の間には、其が伝はつて来たでせう。山づと[#「山づと」に傍線]は物忌みのしるし[#「しるし」に傍線]として、家の内外に懸けられます。浄められた村の人々は、神の物となつた家の内に、忌み籠るのです。此が正月飾りの起りです。標め縄も、山野や木に張り廻すものです。唯、ほんだはら[#「ほんだはら」に傍線]一品は古くから用ゐられてゐますが、海の禊ぎをついだしるし[#「しるし」に傍線]なのです。山人の鎮魂に、昆布・田作・蝦などが用ゐられる様になつたのも、海の関係がないとは思はれません。京では歳暮に姥たゝ[#「姥たゝ」に傍線]といふ乞食が、出たと言ひます。此もさうした者ではないでせうか。節季候《セキゾロ》といふ年の暮を知らして来る乞食も、山のことぶれ[#「山のことぶれ」に傍線]の一種の役なる事は、其扮装から知れます。山の神を女神だと言ふのは、山姥を神と観じたのです。斎女王の野[#(ノ)]宮ごもり[#「野[#(ノ)]宮ごもり」に傍線]には、かうした山の巫女の生活法が、ある点までは見えるではありませんか。

     八 山のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]

大和では、山人の村が、あちこちにありました。穴師山では、穴師部又は、兵主部《ヒヤウズベ》といふのが其です。此神及び神人が、三輪山の上高く居て、其神の暴威を牽制して居たのです。山城加茂には、後に聳える比叡が其でせう。この日吉の山の山人は、八瀬の村などを形づくつたのでせう。寺の夜叉神の役であり、社の神の服従者なるおに[#「おに」に傍線]の子孫であると言ふ考へ方から、村の先祖を妖怪としてゐます。が、唯、山人に対する世間の解釈を、我村の由緒としたのです。この山村などから、宮廷や、大社の祭りに、参加する山人が出たのでせう。其が、後には形式化して、官人等が仮装して来るやうになり、さうした時代の始めに、まだ山舞が行はれてゐて、その方面の鎮魂歌もあつたのです。山舞は又宮廷にも這入つて来たらしいのであります。
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まきもくの穴師の山の山人と、人も見るかに、山かづら[#「山かづら」に傍線]せよ(古今集巻二十)
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かう言ふ文句は、穴師山から来なくなつた時代にも、穴師を山人の本拠と考へて居たからです。山人の形態の条件が、山かづら[#「山かづら」に傍線]にあつた事は、此歌で知れます。鬘《カヅラ》が、里の物忌みの被り物とは、変つて居たからでせう。山人の伝へた物語や歌は、海語の様には知れませんが、推測は出来ます。即国栖歌は恐らく、山部の間に伝はつて居たものでないか、と思ふ根拠があるのです。此を歌ひながら、山人も舞ひ、山姥も舞つたのでせう。そして、山人のは、わりに夙く亡びて、山姥の方だけが変形しながら残つたのでせう。 
さて、山人のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]や舞が、山の帝都に行はれる様になると、海人のほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]は段々、山人ぶりに転化する傾向が出来、そして常世人の位置も、山の神同様に低められ、其呪詞もいはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]に傾いて行く。果は、全く山人同様になつて、海や川に縁る生活を棄てゝ、山地の国を馳せ廻る様にもなつて行きました。其一群は、恐らく、北陸から信濃川を溯つて来て、北西の山野に入り、其処に定住し、山人としての隔離地には、其南方に深い穂高嶽を択んだのでせう。そして、平野の村里に、時々、山の呪法呪詞や芸道を以て訪れました。若い神が、人に
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