りも、更に大きな補助を、島袋源七・比嘉春潮二氏の報告から得ました。
此中で(一)は最、常世人に近い形であります。海の彼方なる大《オホ》やまと[#「やまと」に傍線]――又は、あんがまあ[#「あんがまあ」に傍線]と言ふ国があると考へたのが変じて、其行事又は群行の名としたのらしい――から、祖霊の男女二体及び、其他故人になつた村人の亡霊の来る日を、盂蘭盆に習合したので、其又一つ前には、初春を意味する清明節に、常世人として来た事が考へられます。此中心になる大主前《ウシユメイ》と言はれる老夫――老女《アツパア》を伴ふ――が時々立つて、訓戒・教導・祝福などを述べるのであります。其間に、眷属どもの芸尽しがあります。
此からしても、内地の古記録から考へられる常世のまれびと[#「常世のまれびと」に傍線]の元の姿はやゝ、明るくなつて来ます。此と通じてゐるのは(三)の式であります。此は村踊りと言ひ、又村芝居とも言はれてゐます。祖霊を一体の長者の大主とし、眷属の霊を一行としたものです。さうして今は、其本処の考へを忘れてゐますが、他界の聖地から来たものに違ひありません。親雲上は、其等の群行から、正面に祝福を受ける人として、予め一行を待つ形が変つたのでせう。其に、儀来の大主を加へたのは、長者大主一行の本義の忘れられた為、更に祝福の神を考へ出したのです。
此が変じて(二)になると、色々の形に変化してゐます。なるこ神[#「なるこ神」に傍線]・てるこ神[#「てるこ神」に傍線]と言ふ二体の、聖なる彼岸の国主とするのもあり、唯の一体の海神《ウンヂヤミ》とする処もあります。もつと純化しては、海の向うのにらい[#「にらい」に傍線]・かない[#「かない」に傍線]の国の神とし、更に天上の神として、おぼつ[#「おぼつ」に傍線]・かぐら[#「かぐら」に傍線]と言ふ其国を考へてゐます。其史実化したのが、あまみきょ[#「あまみきょ」に傍線]・しねりきょ[#「しねりきょ」に傍線]の夫婦神です。先島《サキジマ》の中には、まやの国[#「まやの国」に傍線]といふ彼岸の聖地から、まやの神[#「まやの神」に傍線]及びともまや[#「ともまや」に傍線]と称する神が来るとしてゐるものもあつて、此は、蒲葵《クバ》の簑笠を被つた異形神であります。同じく、先島諸島に多く、あかまた[#「あかまた」に傍線]・くろまた[#「くろまた」に傍線]など言ふ風に、仮面の色から名づけた二体の巨人が、蔓草を身に被り、畏ろしい形相の面を被つて出ます。処によつては、青また[#「青また」に傍線]と言ふのが、代つて出る事もあつて、洞穴又は村里離れた岬などから出るのです。此は、鬼と言ふべきものであります。にらいの大主[#「にらいの大主」に傍線]と浄化した地方に対して、此にいる[#「にいる」に傍線]宮城《スク》から来る者は、祖霊と神との間に置くべき姿をしてゐます。祖霊の、異形身と畏怖の情とが、其まれびと[#「まれびと」に傍線]との関係を忘れた世に残れば、単に、祝福と懲罰と授戒との為に来る巨人を、考へる様になる筈です。此が、聖化し、倫理化して考へられると、にらいかないの神[#「にらいかないの神」に傍線]となるのです。

     四 尉と姥

かう言つて来ますと、考妣二体、又は一位の聖なる者の、或は群行者を随へて来る神来臨の形式が思はれます。内地の、古代から近代に続いてゐる、まれびと[#「まれびと」に傍線]の姿も一つ事なのです。考妣二体の聖なる老人と言へば、直に聯想するのは、高砂の松の精と住吉明神一対の「尉と姥」の形です。謡の高砂が、さうした標本を示す前から、翁媼の対立は、考へられて居ました。平安初期に、既に、大嘗祭の曳き物なる「標山《シメヤマ》」にすら、蓬莱山の中に、翁媼の人形を立てゝ居ました。常世の国の考妣二位のまれびと[#「まれびと」に傍線]を、常世の蓬莱化した時代にも、仙人の代りに据ゑて怪しまなかつたのです。高砂に出る住吉明神は、播州からは彼方の津の国をさす処に、来臨する神と、神行き媾《ア》ひの信仰とを印象して居るのです。
日本の書物で、まづ正確に高砂式のまれびと[#「まれびと」に傍線]の信仰を書き残したのは神武紀です。香具山の土を、大和の代表物《モノザネ》として呪する為に取りに行つたのは、椎根津彦《シヒネツヒコ》と弟猾《オトウカシ》とでした。弟猾は男の様に考へられて来ましたが、兄猾を兄か姉かとしても、此は、女性の神巫だつたのです。男の方は老翁になり、女の方は老媼に扮《ヤツ》し、敵中を抜けて、使命を果しました。此は、常世人の信仰があつたから出来た物語です。敵人は見逃し、御方は祝福せられる呪詞呪法の助勢を得た事を、下に持つて居るのです。呪詞呪法は、常世の国から齎らされたもの、と信じられてゐたのでした。
歳暮に来て、初春の年棚の客となる歳神《トシガミ》――歳徳神《トシトクジン》とも言ふ――の姿も、高砂の尉と姥の様な、と形容する地方が多いやうです。さすれば、考妣二体の祖霊です。近世の歳神は、海を考へにおいた常世神と違つて、山から来る様に、大抵思はれてゐます。同じ名の神の性格にも、古今で、大分違ひがある様ですが、出雲人の伝へた御歳神・大歳神は、山祇《ヤマツミ》の類と並べてある処を見ると、山中に居るものと見てゐたらしいのです。古く、海祇《ワタツミ》から山祇に変化すべき理由があつたからです。近代の歳神には、穀物の聯想が少くなつて、暦の歳の感じが多く這入つてゐますが、此名は俗陰陽道などが、古代の神の名を利用して、残し伝へたものと思はれます。だから、方位の聯想などがあるのです。
山から来る歳神にも、一人としか考へられてゐないのがあります。又群行を信じてゐる地方もあります。歳神にお伴があるわけです。かうなると、祖霊来臨の信仰に近づいて来ます。年神棚を吊らず、年縄や年飾りをせぬ家や村があります。此等は、山の歳神以前の常世神の迎へ方を守つてゐて、家風の原因を忘れたものが多いのでせう。だが、まだ外にも理由はある様です。

     五 山びと

常世の国を、山中に想像するやうになつたのは、海岸の民が、山地に移住したからです。元来、山地の前住者の間に、さうした信仰はあつたかも知れませぬ。だが書物によつて見たところでは、海の神の性格職分を、山の神にふり替へた部分が多いのです。
私は山の神人《カミビト》、即|山人《ヤマビト》なるものを、こみ入つた事ながら、説かねばならなくなりました。山守部と山部とは別の部曲です。私は、山部を山人の団体称呼と考へてゐます。其宰領が、山部宿禰なのでせう。ちようど海人部《アマベ》があま[#「あま」に傍線]と言はれるやうに、山部も山《ヤマ》と言はれてゐます。山《ヤマ》[#(ノ)]直《アタヘ》・山[#(ノ)]君などいふのが、其です。海人は、安曇《アヅミ》氏の管轄で、安曇氏は海人部の族長ではない事を主張して居ます。が、山部氏は山人族の主長であるらしいのです。安曇氏の如きも、其ほど海人の血から離れてゐるか、信じられません。山人なる山部が、基本職を忘れて来る様になつて、山部・山守部の混同が起ります。山人とは、どうした部民でせうか。
私の仮説では、山の神に仕へる神人だとするのです。海人部が、海祇《ワタツミ》に奉仕して、時には、海の神人の資格に於て、海祇としての行事を摂行する事がありました。海人の献つた御贄は、海祇の名代で、同時に、海祇自身のする形なのでした。私は海部・山部を通じて、先住民の後とばかりも言へぬと考へます。おなじ族中の者が、海神人・山神人に択ばれて、常住本村から離れて住んで居て、其が人数の増した為に、村を形づくつたものもあると思ひます。
勿論、前住民の服従を誓ふ形式の寿詞《ヨゴト》奏上を以て、海人・山人のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線](祝福)みつぎ[#「みつぎ」に傍線]の起りと考へる事も出来ますが、其は第二次の形です。初めの姿は、海祇即、常世人(わたつみ[#「わたつみ」に傍線]の前型)に扮するのは、村の若者の聖職なのでした。其が山地に入つて、山の神を、常世人の代りにする様になつて来る。此までは、常世の海祇の呪法・呪詞のうけて[#「うけて」に傍線]の代表者は、山の神なので、其山の神が、多くの地物の精霊に海祇の呪詞を伝へる役をしました。其が一転して、海祇に代る様になつたのであります。
さうすると、山の神の呪詞は、宣下式ではなく、又奏上式でもありません。つまり仲介者として、仲間内の者に言ひ聞かせる、妥協を心に持つた、対等の表現をとりました。此を鎮護詞《イハヒゴト》と言ひます。宣下式はのりと[#「のりと」に傍線]、奏上式なのにはよごと[#「よごと」に傍線]と言ふ名がありました。ちようど其間に立つて、飽くまでも、山の神の資格を以て、精霊をあひて[#「あひて」に傍線]としてのもの言ひなのです。山の神に山の神人が出来たのは、此為です。だから、海祇の代りをする海人の神人が、前住民或は異民族とすれば、山人の職が出来てからの事です。即、海祇の代りに神事を行ふ者が、村国の主長よりも低い事になります。常世人は村の主長よりは、位置は高かつたのです。だから、海人が服従の誓約なる寿詞《ヨゴト》や御贄を奉るのは、山の神人の影響を更に受けたのです。
海村の住民の中、別居して神に仕へる形式が行はれ、男や女のさうした聖役に当るものが出来ました。女は、たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]です。かうした人々の間に出来た村が、異種の村と混同せられる様になつたのでせう。山の村も、同様にして出来ましたのでせう。其が、蛮人の村と思ひ違へられる様になつた事もありませうが、此は、わりに明らかに、国栖・土蜘蛛などゝ区別せられた様です。海人部の民が、所謂あまのさへづり[#「あまのさへづり」に傍線]をする異人種の様に考へられた程ではありません。海部の民は、呪法・呪詞に馴れて居ました。其が諸国の卜部の起原です。
海人部の民の中の、小・中宗家など言ふべき家の中からも、宮廷の官司の馳使丁が出ました。此が海人《アマ》の馳使丁《ハセヅカヒ》です。其内、神祇官に仕へた者が、特にあまはせづかひ[#「あまはせづかひ」に傍線]と言はれたらしいのです。更に、此中から、宮廷の語部として、海語部《アマガタリベ》と言ふ者が出来たと見られます。天語部は鎮護詞を唱へると共に、其中の真言とも言ふべきうた[#「うた」に傍線]を、おもに謡ふ様になりました。其が「天語歌」のあるわけで、其とおなじ性質で、寿詞や鎮護詞式でないものが、神語《カミガタリ》といはれたらしいのです。神語歌《カミガタリウタ》の末に、天語の常用文句らしい「あまはせつかひ、ことの語《カタ》り詞也《コトモ》、此《コヲ》ば」と言ふ、固定した形のついてゐるわけであります。
海語部が、諸国の海人の中にも纏はつて来ました。一方、卜占を主とする海人の卜部が、又諸国に還り住んで、卜部の部曲が拡がります。宮廷の海語部は、後には、卜部の陰に隠れて顕れなくなり、卜部の名で海語部の行うた鎮護《イハヒ》のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]を言ひ立てる様になりました。此卜部が、陰陽寮にも勢力を及ぼしました。踏歌の節の夜の異装行列は、元、卜部の海語部としての部分を行うたものらしく、群行神の形であつて、作法は、山人の影響を受けたものです。服従の誠意を示しに、主上及び宮殿をいはふ言ひ立てに来るのであります。

     六 山づと

此|高巾子《カウコンジ》の異風行列は、山人でもなかつた。万葉集には、元正の行幸が添上郡の「山村」にあつた事と歌とを記してゐる。
[#ここから2字下げ]
あしびきの山に行きけむ山人の 心も知らず。やまびとや、誰(舎人親王――万葉巻二十)
[#ここで字下げ終わり]
仙人を訓じて、やまびと[#「やまびと」に傍線]とした時代に、山の神人の村なる「山村」の住民が、やはり、やまびと[#「やまびと」に傍線]であつた。此歌は、神仙なるやまびと[#「やまびと」に傍線]の身で、やまびと[#「やまびと」に傍線]に逢ひに行かれたと言ふ。其やまびと[#「やまびと」に
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング