るではありませんか。

     八 山のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]

大和では、山人の村が、あちこちにありました。穴師山では、穴師部又は、兵主部《ヒヤウズベ》といふのが其です。此神及び神人が、三輪山の上高く居て、其神の暴威を牽制して居たのです。山城加茂には、後に聳える比叡が其でせう。この日吉の山の山人は、八瀬の村などを形づくつたのでせう。寺の夜叉神の役であり、社の神の服従者なるおに[#「おに」に傍線]の子孫であると言ふ考へ方から、村の先祖を妖怪としてゐます。が、唯、山人に対する世間の解釈を、我村の由緒としたのです。この山村などから、宮廷や、大社の祭りに、参加する山人が出たのでせう。其が、後には形式化して、官人等が仮装して来るやうになり、さうした時代の始めに、まだ山舞が行はれてゐて、その方面の鎮魂歌もあつたのです。山舞は又宮廷にも這入つて来たらしいのであります。
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まきもくの穴師の山の山人と、人も見るかに、山かづら[#「山かづら」に傍線]せよ(古今集巻二十)
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かう言ふ文句は、穴師山から来なくなつた時代にも、穴師を山人の本拠と考へて居たからです。山人の形態の条件が、山かづら[#「山かづら」に傍線]にあつた事は、此歌で知れます。鬘《カヅラ》が、里の物忌みの被り物とは、変つて居たからでせう。山人の伝へた物語や歌は、海語の様には知れませんが、推測は出来ます。即国栖歌は恐らく、山部の間に伝はつて居たものでないか、と思ふ根拠があるのです。此を歌ひながら、山人も舞ひ、山姥も舞つたのでせう。そして、山人のは、わりに夙く亡びて、山姥の方だけが変形しながら残つたのでせう。 
さて、山人のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]や舞が、山の帝都に行はれる様になると、海人のほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]は段々、山人ぶりに転化する傾向が出来、そして常世人の位置も、山の神同様に低められ、其呪詞もいはひ詞[#「いはひ詞」に傍線]に傾いて行く。果は、全く山人同様になつて、海や川に縁る生活を棄てゝ、山地の国を馳せ廻る様にもなつて行きました。其一群は、恐らく、北陸から信濃川を溯つて来て、北西の山野に入り、其処に定住し、山人としての隔離地には、其南方に深い穂高嶽を択んだのでせう。そして、平野の村里に、時々、山の呪法呪詞や芸道を以て訪れました。若い神が、人に
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