下げ終わり]
と言ふ名高い万葉集の東歌と、御祖神の宿を断つた富士の神の口実(常陸風土記)などに、其俤を留めてゐる。此等の東人の新嘗風習を踏み台にすれば、我々には垣間見をも許されて居らぬ悠紀《ユキ》・主基《スキ》の青柴垣に籠る神秘も、稍、窺はれる様な感じがする。新嘗・大嘗を通じて、皇祖神《スメロギ》との関係を主として説く従来の説は、どうも私の腑に落ちぬ。小むづかしい僚窓の下でひねくられた物語りよりも、民間の俗説の方が、どれだけ深い暗示を与へてくれるか知れぬのである。
大嘗をおほにへ[#「おほにへ」に傍線]・おほむべ[#「おほむべ」に傍線]など云ふに対して、新嘗がにひにへ[#「にひにへ」に傍線]ともにひむべ[#「にひむべ」に傍線]とも云ふことの出来ぬ理由は、民間の新嘗に該当する朝廷の大嘗が、大新嘗といふ語から幾分の過程を経て来た為だ、と私は考へてゐる。
全体、万葉の東歌の中には、奈良の京では既に、忘れられてゐた古い語や語法を多く遺してゐる。此から考へると、にふなみ[#「にふなみ」に傍線]といふ語を、新嘗といふ漢字の字義通りに説明する語原説も、まだ/\確乎不抜とは言はれぬ様に思ふ。「葛飾早稲をにへす」といふにへ[#「にへ」に傍線]が、単に贄物《ニヘモノ》を献る、といふ今日の用語例と一致したもので無く、新嘗の行為全部を包容する動詞だとすれば、にふなみ[#「にふなみ」に傍線]のにふ[#「にふ」に傍点]は、新《ニヒ》の転音だといふばかりで、安心して居られなくなる。私は今は、にへなみ[#「にへなみ」に傍線]・にふなみ[#「にふなみ」に傍線]何れにしても、格のてにをは[#「てにをは」に傍線]なる「の」と「いみ」との熟したもので、即、にふのいみ[#「にふのいみ」に傍線](忌)といふ語であるらしいことを附記して、考証の衣を著せられない、哀れな此小仮説をとぢめねばならぬ。
底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
1995(平成7)年4月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第一部 民俗学篇第二」大岡山書店
1930(昭和5)年6月20日
初出:「郷土研究 第四巻第三号」
1916(大正5)年6月
※底本の題名の下に書かれている「大正五年六月「郷土研究」第四巻第三号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月8日作成
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