に発見せられた天野告門《アマノヽノリト》を読んだ人は、丹生津媛《ニフツヒメ》の杖を樹てたあちこちの標山が、皆丹生の名を持つてゐるのに、気が附いたことであらう。私には稲むらのにほ[#「にほ」に傍線]が其にふ[#「にふ」に傍線]で、標山のことであらう、といふ想像が、さして速断とも思はれぬ。唯、茲に一つの問題は、熊野でにえ[#「にえ」に傍線]と呼ぶ方言である。此一つなら、丹生系に一括して説明するもよいが、見遁されぬのは、因幡でくま[#「くま」に傍線]といふことで、くましろ[#「くましろ」に傍線]又はくましね[#「くましね」に傍線]と贄《ニヘ》との間に、さしたる差別を立て得ぬ私には、茲にまた、別途の仮定に結び附く契機を得た様な気がする。即、にへ[#「にへ」に傍線]又はくま[#「くま」に傍線]を以て、田の神に捧げる為に畔に積んだ供物と見ることである。併し、此点に附いては「髯籠の話」の続稿を発表する時まで、保留して置きたい事が多い。
那須さんの所謂郊村に育つた私は、稲の藁を積んだ稲むらを、何故すゝき[#「すゝき」に傍線]と謂ふか、合点の行かなかつた子供の時に「薄《スヽキ》を積んだあるさかいや」と事も無げに、祖母が解説してくれたのを不得心であつた為か、未だに記憶してゐる。ともかくも、同じく禾本科植物の穂あるものを芒《スヽキ》と謂ふ事が出来るにしても、其は川村杳樹氏の所謂|一本薄《ヒトモトスヽキ》の例から説明すべきもので、祖母の言の如き、簡単なる語原説は認め難い。田村吉永氏などは御承知であらうが、真土山《マツチヤマ》界隈の紀・和の村里で、水口祭《ミナクチマツ》りには、必、かりやす[#「かりやす」に傍線]を立てるといふ風習は、稲穂も亦、一種のすゝき[#「すゝき」に傍線](清音)であつて、此に鈴木の字を宛てるのは、一の俗見であるらしいことを考へ合せると、何れも最初は、右の田の畔の稲塚に樹てた招代《ヲギシロ》から、転移した称呼であることを思はせるのである。
処が茲にまた、こづみ[#「こづみ」に傍線]といふ方言があつて、九州地方には可なり広く分布してゐるやうである。徳島育ちの伊原生の話に、阿波では一个処、此をほづみ[#「ほづみ」に傍線]と謂ふ地方があつたことを記憶する、と云ふ。果して、其が事実ならば、彼のこづみ[#「こづみ」に傍線]も、木の積み物又は木屑などの義では無く、ほづみ[#「ほづみ
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